指すのを見ると、それはこの間溝にうちこまれたあと、また立て直されている託児所の標識であった。
「何って――わかりきってるじゃないか」
 タミノが出て云った。
「もう一年もあすこに立ってるんだもの」
「立てていいって誰か云ったのか?」
 いかにも煩《うる》さそうに、タミノが、
「だって、立ってるんだもの。ここがこうやってあるんだから――」
と云いかけると、その男はおっかぶせて、
「そりゃ分らんよ」
といやに意味深長に云った。
「こっちで、ない[#「ない」に傍点]、と見りゃ、在りゃしないじゃないか。日本プロレタリア文化連盟だって、当人たちはある[#「ある」に傍点]つもりらしいが、我々の方じゃ、あらせ[#「あらせ」に傍点]ちゃいないんだ」
 タミノは、その男が去ると、地べたへ唾を吐きつけて云った。
「チェッ! すかんたらしい!」
 その次の日の午後二時頃、ひろ子が二階でニュースの下書きをしていると、誰かが一段、一段と重そうに階子をのぼって来る跫音がした。きき馴れない足どりであった。ペンを持ったまま振り向くと、そこには鍾馗タビの稲葉のおかみさんが、風呂敷包みを下げたなり上って来ている。包みからは大根がはみ出していた。
「ああ、小母さんなの……どうして? 何か用?」
「大谷さん、ここへき[#「き」に傍点]なかった?」
「――来ませんよ」
 大谷とは、今夜会う約束なのであった。稲葉のおかみさんは、平常でない目のくばりで、
「じゃア、やっぱしそうだったんだろか」
 ひろ子は、自分でも知らない速さで椅子から立ち上った。
「どうした?」
「――あたし、見ちゃったんだヨ」
 その声の表情にはひろ子をぞっとさせるものがあった。
 おかみさんの家が講の当番なので、今日は休んで買い出しに出た。駅前の大通りをこっちの方へ曲ると、前の方を大谷らしい男が、もう一人別の若い男と連れ立って歩いて行くのが見えた。稲葉の神さんはもう少し近づいてみて大谷だったら声をかけようと思ってうしろからついてゆくと、ラジオ屋の角で若い方の男が別れた。二つばかり横丁をすぎた時、駄菓子屋の横から一人の洋服の男が出て来たと思うと、早、もう二人どこからか出て来て丁度前後から大谷を挾んだ。
「おい!」
 何とかいうのと、大谷がすりぬけようとするのと、その大谷をすばやく三人が囲んでちょっとくみ合いがはじまったのと、稲葉の神さんの目
前へ 次へ
全30ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング