私は自分が女という点もあり、日本の女の生活にある様々の問題がその原因をなしていることがわかる。よく、日本の女は一寸した親切にもほだされるといわれているが、女に対する劬《いたわ》りというものが、欠けている日本の習俗の中では、外国人の男のそういう礼の表面的な、或る場合偽善的な謂わば折りかがみさえ、感情の上に何かの甘味を落すのであろう。
映画や音楽で、今日の日本の女はそういうエティケットの世界を架空的に自身の空想の中に吸収している。身ぶりの端々にときめく心を目ざまされている。それでいて、日常の現実の間では、誰も彼もがヨーロッパ風の躾をもった青年を自身のまわりに持っているのではないから、一旦、将に生きて体臭をはなって、映画の中にあるように自動車ののり降りに軽く肱を支えてくれる碧眼の男があらわれると、気分が先ず空想の世界へとび入ってしまい、素朴に日本の女の本質的には至って古風な受動性の変形である恍惚境にとけ込んで、計らざる結果になるのではないだろうか。
日本の女の今日の感情の特質は、「夢見る唇」で、ベルクナアが示したような表面の技法で、内実は父権制のもとにある家庭の娘、戸主万能制のもとにある妻、母の、つながれた女の昔ながらの傷心が物を云っているところにある。女の過ちの実に多くが、感情の飢餓から生じている。その点にふれて見れば、女の悲しみに国境なしとさえいえる有様である。
近頃、『新青年』『婦人画報』その他沢山の雑誌が、男のエティケットについて書くことが流行している。そして、実際に、或る種の若い男のひとびとのいつしか身につけている自然な物馴れは、社交性のいやみと違った一つの新時代の社会性として現れて来ている。
私は、ひそかにこの男の、エティケットについて、或る意味での既成社交的への馴致《じゅんち》の傾向について、少なからず歴史的興味を抱いて観察している者の一人である。何故なら大戦の経験後、今日の、ブルジョア・ヨーロッパの文化は、女に対する男の騎士道の礼儀を単に一つの、それが単なるしきたり[#「しきたり」に傍点]であると男女相互の間に十分理解されつくしているところのしきたり[#「しきたり」に傍点]としての形骸をとどめているに過ぎないのであるから。ヨーロッパ文化は、一方で、トルストイやストリンドベリーのように、そういう甘たるい客間のしきたり[#「しきたり」に傍点]に頑固に
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