のではなくて、それらの現象を通じて生きる人の姿が動いているという意味で、今日現実に堪える作品がつくられてゆくことは容易な業でない。だからこそ、野暮にしちくどく希望されていいことなのだろうと思う。
 一人の作家の動きとして火野葦平氏をみる。するとそこには「糞尿譚」の作者があり、つづいて麦と土と花と兵隊の作者があり、やがて河童の「魚眼記」が現れている。この過程に何が語られているだろう。「土と兵隊」の作者に「魚眼記」の現れたのは誰そのひとだけにかかわった現実であって、私たちには他人のことだと云えるのだろうか。
 日本の近代の文学に河童が登場することについては考えるべき何事かがある。周知のとおり、芥川龍之介は死の数ヵ月前、昭和二年の二月、小説「河童」を書いた。漁師のパック、詩人トック、音楽家クラバックなどの活躍する芥川の河童の国には、生活と判断とが溌溂と盛られていて、作者の社会批評と人生と芸術への気持が、積極な熱をもって流れている。
 それにもかかわらず、河童の国へ墜ちなければ、クラバックの直情をも描けなかったところに、作家芥川としての悲しい河童性があった。河童とは詰まるところ日本の前時代的な
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