覚悟した、その覚悟が心に甦る。
 人としての彼を選んだ自分は、人として、彼並びに自分を活さなければならないのだ。
         ――○――
 彼が帰朝以前から問題に成って居る、分家問題は、此の二三日に於てそのクライマックスに達した。
 親達の意見は、物質的に保障のない、社会的に位置のない彼を真《ま》ともに世間に向けて生活するよりは、父の威を暗示し得る中條姓で行く方が、世間の人間に尊敬を感じさせ易く、私共の結婚に就て、喋った人の口もふさげ、仕事も出来ようと云うのである。
 二人は、彼等の死後、或は生前も、物質的保護を受けるに正当な位置に置かせようとして、彼の改姓をのぞむのである。
 而し彼の心から云えば、その好意に対して、自分は感謝し、法律上改姓しても、仕事、或は今までの知己には、荒木姓を名乗って行きたいと云うのである。
 マミは、此を今夜きいて、非常に激された。
「其は荒木さんに都合がよいことだろうさ、けれども、始め、グランパは何と云った、自分は何も無く、何も出来ないものだけれども、全力を捧げて百合ちゃんの仕事を完成させる為に尽す、と云って寄来したじゃあないか、ちゃんと手紙も取ってある。
「手紙がとってある――おかあさま、そんな事もおっしゃるの、私は、真個に、心が痛む、
「だけれども、そうじゃあないか、一体が、始めから私は結婚を許したのじゃあ、ありません。此は、此間も話した事だけれども、家でも斯うやって多勢子供も死に、肉身も少ないのだから、百合ちゃんには養子を取って、分家をさせようと、此那事が起らない昔から云って居たのだ。
「其じゃあ、おかあさまは、養子になれる可能のない人と結婚しようとしたら、御拒みになりますの。
「ともかく一応承諾は経るべきじゃあないか、つまり其人が、真個にお前を愛して居さえすればいいのです。一言で云えば、自分の名なんかどうでもいい、其那ものも捨てる位の人でなければ、お前は愛さないだろうと思って居たのだ。
 斯様な問題が繰返された。
 一度でも、私が、その物質と交換的な養子問題を、内心或る心にすまなさを感じつつそれに傾いたのが、誤りだったのだと思わずには居られない。
 自分達が相互の愛に責任を持った以上、その結果たる生活にも、責任を持つべきであったのだ。
 自分の愛は、今少しで、不思議に甘い妥協と家族制度との誘惑に陥る処だった。
「他姓」「他姓」と屡々《しばしば》繰返される両親から、物質的補助を心易く受け得る申訳として、家族の一員と成って其姓を犯す――此を彼にさせてよろしいものだろうか、
 此点の決定は、自分を一家のペットとするか、或は又、主義、真理の追従者とするかに別れる。
 自分は彼等の愛と、心痛とを明かに感じる事が出来る。然し……心にやましく恥じつつ、仮にも「真」を見出して生きようとする自分の生は続けられない。
 考えなければならない。此は空想ではないのだ、自分が呼んだ巨人におびえるのは自分か。
 此の問題を決定するまでに、自分はどこか静かな田園に考え場所を求める。

 一九一八年十月二十三日[#「一九一八年十月二十三日」は太字]〔東京市本郷区駒込林町二一 中條葭江宛 シカゴ(消印)より(“WILL THEY LAST”と記された諷刺絵の絵はがき)〕

 此頃のアメリカの新聞は、講和問題で賑って居ります。独逸が潜航艇を皆引上げそうな事を云ったり、平和を要求したりするような顔をするが、実は、羊の皮を着た狼だ、要心しろ! と云うような事をしきりに云って居ります。

 一九一八年十二月二日[#「一九一八年十二月二日」は太字](消印)〔東京市本郷区駒込林町二一 中條葭江宛 ワシントン(消印)より(ワシントン市の国会図書館の写真絵はがき)〕

 紐育から来て見ると、ワシントンの静かな事は、まるで音のない国のようでございます。紐育では見たくても見られない大きな古木も並木もあり、人通りも、人気もおだやかで、流石お役人町らしゅうございますが、一□[#「□」に「(一字不明)」の注記]紐育に居て見ると、こちらは住むには余り活気がなさすぎるような気も致します。

 一九一八年十二月五日[#「一九一八年十二月五日」は太字](消印)〔東京市本郷区林町二一 中條葭江宛 マウント・ヴァーノン(消印)より(Martha Washington の寝室の写真絵はがき)〕

 ワシントン夫人の死んだ部屋でございます。屋根裏の小さい、狭い、彼れほどの人の夫人の死場所として、外見はあまりに貧弱でございますが、その只一つほかない小窓は、スロープの彼方の良人の墓を二十四時、彼女の目前に示して居ります。

 一九一八年十二月五日[#「一九一八年十二月五日」は太字](消印)〔東京市本郷区林町二一 中條葭江宛 マウント・ヴァーノン(消印)より(ジョ
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