間求めて居たリビングストン伝を見出す事が出来た。
 早速その序二三頁を読んで、自分の心は云い知れぬ感激に打たれた。
 人間の生活は、何と云う妥協を許すものだろう。
 自分は、誠実の欠乏を、その恥に堪えないまでに思い知らされる。ヒシヒシと、百打ちの鞭打を加えられるような心持がする。
 自分は何を知ったと云えるのか、
 此の曖昧な甘い自分は、文学に、何を創ろうとして居るのか、
 眼覚めよ、憐れなる我が心、
 真実のみに人は動かされる。より真なるもの、よき真ならんと努力する者の心を視た時、人は僅かな解怠心をも恥じずには居られないのだ。
 自分は甘い落付きを厭う。それを厭う自分である事を自覚することによって第二の甘さに堕そうとする。恐ろしいことではないか、自分の此から書こうとする黄銅時代は、更に甦り、強められた自責の念と、謙譲な虚心とによって書かれなければならないのだ。

 四月二十八日[#「四月二十八日」は太字]
 今日、福井の方から転送されて来た国男の手紙を見る。
 仮令《たとい》感傷的だと云う点で非難はされるとしても、彼が深夜、孤り胸を満す寂寥に堪えかねて書いた文字は、自分を動かさずには置かない。心から心へと響いて来るのだ。
 自分は、自分の愛する者を一人をも、真に幸福に仕てやる力は持たないのだ。小さい、小さい箇人の力――自分は彼を思うと、陽気に自分の幸福を讚美したり、楽しさに有頂天に成っては居られない心持に成って来る。私が、何としても、自分が健康で、活気に満ちて、生活に対する意力を感じて居るのは事実である。その明快な自分を傍観する彼は、如何に私が幸福だからと云って、自分をも亦幸福にする事は出来ないのだ。
 どんな心持で、私は、愛する者と偕《とも》に棲み、偕に仕事をする自分を見る事だろう。
 愛する者よ、自分は又、自分の殆ど不可抗の無力を犇々《ひしひし》と感じられる。

 四月二十八日午前二時[#「四月二十八日午前二時」は太字]
  我が六畳の書斎にて記す。
    (彼は静に隣室に眠って居る)
 此の日は、自分に、一生の運命の或決定的な転向を暗示した時である。
 人生観の裡に含まれた、多くの曖昧さ、其等は皆、所謂よい[#「よい」に傍点]家庭の習俗と、甘い、方便に安んじ得る妥協的な利己から来て居たものが、明かな光に照り出された。
 自分が、彼との結婚を宣言した時、既に
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