ぐ……。自転車が蹴立てて通る塵埃《じんあい》を透して、都会の太陽が、赤味を帯びて照っている。
 正午《ひる》少し過ぎの、まぶしい町を孝之進は臆病に歩いて行った。何も彼も賑やかすぎ、激しすぎた。目が不自由なため、絶えず危険の予感に襲われている彼は、往来を何かが唸って駆け抜けると、どんなに隅の方へよっていても、のめって轢《ひ》かれそうな不安を感じた。縋《すが》る者もない彼は、脇に抱えた縞木綿の風呂敷包みをしっかりと持って、探り足で歩いた。国から持ってきた「狙仙」の軸を金に代えようとして行くのである。鈍い足取りで動く彼の姿は、トットッ、トットッと流れて行く川面に、ただ一つ漂っている空俵のように見えた。
「これはどんなものだろうな?」
 孝之進は、自分で包から出した「狙仙」を、番頭と並んで坐っている主人に見せた。
「さあ、どれちょっと拝見を……」
 利にさとい主人は、絵を見る振りをして、孝之進の服装《みなり》その他に、鋭い目を投げた。そして何の興味も引かれないらしい、冷かな表情を浮べながら、
「真物《ほんもの》じゃあございませんねえ……」
と云った。列《なら》べてある僅かの骨董などを、ぼんやり見ていた孝之進は、さほど失望も感じなかった。
「そうかな? 頼んだ人は(彼はちょっとためらった)真物に違いないと云っておったんだが……」
「ハハハハ。そりゃあどうも……。こう申しちゃ何でございますが、贋物《にせもの》にしてもずいぶんひどい方で。へへへへ」
 それから主人は、孝之進がうんざりするほど、贋だという証拠を並べたてた。
「が、せっかくでございますから、十円で宜しきゃ頂いときましょう。それもまあ、狙仙だからのことで……」
 孝之進は、主人が列挙したような欠点――例えば、子猿の爪の先を狙仙はこう書かなかったとか、眼玉がどっちによりすぎているとかいう――を、一つ一つ真偽の区別をつけるほど、鑑賞眼に発達していない。(若し主人のいうことが事実としたら)それに、また持って歩いて、どうするという気になれないほど、体も疲れている。「一層《いっそ》売……」けれども、考えてみればかりにも家老の家柄で、代々遺して来たものに、偽物のあることは、まあ無い方が確かだろうとも思われる。うっかり口車になど乗せられて堪るものかと感じた。で、彼は売るのをやめて、帰ろうとまで思ったが、差し迫っては十円あってもよほど助かる。彼はとうとう決心をした。そして、皺だらけな札と引きかえに、家代々伝わってきた「子猿之図」を永久に手離してしまったのである。

        五

「ホーラ見ろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 庸之助は飛び上った。
 若し万一、かの記事通りの恥ずべき行為があったなら、親子もろとも、枕を並べて切腹するほかないとまで思いつめて、事実を訊ねてやった返事として、父自身で書いたこの、この手紙を貰ったのだと思うと、五日の間あれほどまでに苦しんだ煩悶が、驚歎せずにはいられない速さで、彼の心から消えてしまった。激しい嬉しさで、彼はどうして好いか解らなかった。ひとりでに大きな声が、
「ホーラ見ろ! 僕の思った通り、きっかりその通りじゃあないか! 見ろやい※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
と叫んで、じっとしていられない二つの手が、無意識に持った手紙をくちゃくちゃにまるめた。書面のあちらこちらに散在している「公明正大」という四字が、天から地まで一杯に拡がって、仁丹の広告のように、パッと現われたり消えたりしているのを彼は感じた。
「さすがは父さんだ。偉い! 見上げたものだ。なにね、そりゃ始めっからキットこうなんだとは思っていたんだが、ちっとばかり心配だったんでね、父さん! ハハハハハ」
 満足するほど、独りで泣いたり笑ったりしたあげく、融けそうな微笑を浮べながら、庸之助は部屋に戻ってきて、何か書きものをしている浩のところへ、真直に進んで行った。肩に手をかけた。
「オイ! よかったよ!」
 弾んだ声が唇を離れると同時に、肩に乗せていた彼の手の先には、無意識に力が入って、握っていたペンから、飛沫《しぶき》になってインクが飛び散るほど、浩の体をゆりこくった。
「う?」
「よかったよ君! もうすっかり解った。何でもなかったんだよ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 笑み崩れた庸之助の顔が、「あのことだよあのことだよ」と囁やいた。
「え? ほんとうかい? ほんとうに何でもなかったんかい? そーうかい! そりゃあほんとによかったねえ君! ほんとうによかった!」
 極度の喜びで興奮して、ほとんど狂暴に近い表情をしている庸之助の顔を、一目見た浩の顔にもまたそれに近いほどの嬉しさが表われた。
「よかったねえ。おめでたかったねえ……」
 浩は、庸之助の肩を優しく叩きながら、感動した声でいったので
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