て、そのまま、巡査は庸之助を許してやったのであった。
 町はますます賑やかに、華やかになって来た。敷石道を、水を流したように輝やかせているいろいろの電燈。明滅するイルミネーション。楽隊。警笛。動きに動いている辻に立って庸之助は、呆然としている。ただ開けているだけの彼の目の前を、幾人もの通行人、電車が通り過ぎた。そして、或る一人の若者が、自分の顔をこするようにして通りかかったとき、庸之助は思わずハッとして反動的に面をそむけた。
「浩だッ!」サアッと瀧のような冷汗が、体中から滲《にじ》み出すのを感じた。彼は恐る恐る頭を回して眼の隅から、今行き過ぎようとする若者の後姿を窺《うかが》った。いかにもよく似ている。そっくりその儘である。けれども浩ではなかった。若し彼なら、これほど近くにいる自分を見ないで通り過ぎることは、絶対にないからである。そう思うと、何ともいえない安心が庸之助の心に湧き上った。そして、今まで気付かなかった秋の夜風が、ひやひやと気味悪く濡れた肌にしみわたった。彼はホッとして、額を拭きに手を上げたとき、そのとき、その瞬間! ようよう落付いた彼の頭に、電光のように閃いたものがある。それは浩が、常に云い云いした「強く生きろ!」という言葉であった。
「強く生きろ! 強く生きろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
 庸之助は、今日までこんなにも悪く悪くと進んで来たにも拘らず、未だ自分を悪くなりきらせない何物かがあることを感じた。彼の言葉を思い出した瞬間、いかほど内心の或る物が動揺しただろう。彼はいても立ってもいられなくなった。「こうしてはいられない。どうにかしなければならない。」彼の目前には、体中に日光を輝かせて、勇ましく働いている浩が、両手をあげて自分をさし招いているのがまざまざと見えた。「こうしてはいられない!」彼はもう、目にも届かない、暗い深い谷底へと、ずるずる転落する自分を見離すことは出来ない心持になった。どうにかせずにはすまされない心持――。庸之助はそれが「希望」であることを覚ったのであった。
「希望!」
 父親の入獄以来、自分には絶対に関係ないと思っていた「希望。」
「ああ! 俺にはまだ希望があったのだ※[#感嘆符二つ、1−8−75] 希望が!」庸之助はこわばっていた心が、端からトロトロと融《と》けて来るのを感じた。名状しがたい涙がこぼれ出したのである。

        十四

 庸之助にとっては、どうしても偶然とは思えないこのことのために、一旦影を隠していた彼の「善の理想」がまた頭を擡げ出したのである。
「俺は一生これで終る人間ではない!」とは、もちろんただ思っただけで終ってしまうかもしれないが、庸之助には心強かった。どうしてもすべてが天の配剤だという気がして急に明るい広い、道が開けたのを感じたのである。
 天が自分に幸すると思うと、光輝ある考えになって来た彼は、また立志伝中の一人として自分を予想し、努力し始めた。彼は全く熱中して、善い自分を現わすことに心ごと打ちこんで掛ったのである。ちょうど、先に彼が、猫を被って、世間体をごまかしている者達を、アッと云わせてやるほど、どこまでも悪太《わるぶと》くなれと覚悟したときの通りの、強い熱心をもって、今度はまるで反対の方へ進み始めたのである。
 この変化は、浩との友情を、またもとの純なものにした。「坊っちゃん、坊っちゃん」と馬鹿にしていた浩――もちろん庸之助は浩の言葉に動かされたことも、一度二度ではなかった。けれども強いて尊び、互に打ちとけ合おうとはしなかった。一人の人間に対してでも特別な情誼を持っていることは、自分が悪太くなりぬくに妨げとなると、感じていたのである。――のことも、無理しない感情で考えることが出来た。死刑囚がいざ殺されるというときになって、頸に繩を巻かれても、彼の心には何か生に対しての希望がある。たとい漠然とはしていても何か今ここで断たれっきりの生命ではないことを感じている。それでなければジッと繩を巻かれていられるものではあるまいなどと、かつて浩が語ったときには、未練だとか、膽《きも》が小さいとか、嘲笑《あざわら》ったけれども、このごろはそうでもあろうという気がして来た。そして、浩はいい友達であったということも感じて来たのである。
 思いがけない庸之助から、葉書を貰ったとき、浩は快い驚きにうたれた。どうぞ暇だったら話しに来てくれなどと、見なれた字で書かれてあるのを見ると、彼はそのまま、うっちゃって置けない心持がした。まるですべての態度が一変した彼を見たばかりには、浩は自分が信じられないほどの嬉しさで一杯になった。妙な隔たりのない、先通りの友情が恢復したことは、二人にとってほんとに喜ばしいことであった。
「実は僕も気が気でないようだったよ」
と云ったとき、今の安
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