杯でもあったし、また法律上の許す範囲では恐らくこれが限度だったのでしょう」
最後に弁護士が、落付いた口吻《こうふん》で、云いおわったとき、庸之助は、大きな力でぶちのめされたような気がした。土気色な顔をし、手足を氷のようにして、うなだれている彼の唇は、ビリビリと痙攣していた。
「分りました。有難う、実に……」
こわばった舌で、辛うじてこれだけ云うと、彼は早速|暇《いとま》をつげた。
どこをどう歩いているのか解らずに、ただやたらに足を動かしていた彼は、しばしば「冤罪《えんざい》だ! 実に恐ろしい冤罪だ!」とつぶやいた。けれども、何か心の中で、ヒソヒソと、それを否定している響があった。
「冤罪だ? お前の父親が?」
通る者の誰も誰もが、自分の顔を見ては、微かながら、侮蔑的な注目を与えて行き過ぎるのを彼は感じた。
「お前かい? 息子というのは……」
どの目もどの目も咎める。身の置場のないというような不安が、始めて庸之助の心に強く強く湧いたのである。永住の地と思い定めて帰った故郷も、やはり今の自分を安らかに、落付かせてはくれぬ。狭量な、無智な批評の焦点となろうよりは――。どんな人間でも匿《かくま》う穴や、小道の多い東京へまた戻る決心をした。
もう再び踏まぬかもしれぬ土地と離れるときに、せめて父親にでも会って行きたかった。監獄の門まで行ったことさえあった。が、考えて見れば、「公明正大」とあんなに書いてよこした彼が、赤衣を着、鎖につながれた姿を見ることは、また見せることは互に、何という辛いことか、たとい冤罪にしろ(庸之助は冤罪という字を見ると、心がグーッと圧しつぶされた。)余り苦しすぎる。恐ろしい。とうとう面会を断念して彼は、僅かでも二人の間に、「何がほんとだか解らないもの」を置きたかったのである。
東京へ一足踏み込むと同時に、すべてを諦めてどこかの職工にでもなろうと思って来た、彼の心は動かされた。名誉心、功名心を刺戟するあらゆる事物が、年若い彼を苦しめ、虐《さい》なんだ。自分よりもっともっと学問のない、力のない者まで、社会の表面で相当に活動しているのを見ると、今更自分をさほどまでに見下げることも、躊躇《ちゅうちょ》された。たといのろのろとではあっても、周囲の若い者達が出世の道をはかどらせているうちに、自分一人わざと取り残される必要もなく思えた。
木賃宿に近いほど
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