ることも、憎むこともなくなる――例えば、Aという金持の男と、Gという貧乏のどん底にいる男がある。Aが、何の働きもせずに、それでいて立派な生活をしているのを、いくら働いても食うだけのことも出来ないGが、「ああ羨しいなあ」と思い、やがては、狂的な嫉妬で、Aを殺してしまう。金を欲しいのでもない。GにはただAの面を見ると癪《しゃく》に触るという心だけが強かったのである。Aの家族は悲しむ。Gを憎む。出来るだけ酷刑に処してもらいたいと思う。が、死刑にされても、まだ足らなく思う。こういうときに、Gの心持も、Aの家族の心持も、どちらも肯定され、理智的ばかりでなく、ほんとうの心から、両方ながら憎む念などはない――というようになるはずなのかもしれないとも思った。がそれは大変むずかしいことだ。
「すべて好い……」という言葉を思い浮べて、彼は涙をこぼした。

        七

 ちょうどこのとき、東京駅には、下関発の急行列車が到着した。彼等の頭を押し潰されそうに、重苦しく陰気な通路から、吐き出されたたくさんの旅客の中に混って、庸之助の姿が見えた。小さい鞄を一つ下げ、落着かない目で周囲を見まわしていた彼は、やがて飛び出すように雑沓するうちを、かき分けてどこかへ行ってしまった。都会の中央の、この忙がしいうちで、何の奇もない、田舎者丸出しの一青年の彼に、注意を引かれた者は、ただの一人もなかった。
 庸之助は、あの日に東京を立つと、ほとんど夢中で故郷の小さい町まで運ばれて行った。そして、停車場へつくとすぐその足で、かねて見知り越しであり、今度の父親の事件に関係した某弁護士を訪ねた。職業から来る、おもおもしいまた、幾分傲慢のようにも思われる弁護士の前に、息をつめて立っている庸之助の、煤煙や塵に穢《よご》れ、不眠で疲れきり、青黒く膏《あぶら》の浮いた顔は、非常に憔悴《しょうすい》して見えた。
 弁護士は、一通り形式的な同情を表してから、事件の説明にかかった。彼の言に依れば、今度の事件の陰には、もっとたくさんの小事件が伏在していて、三年前に、郡役所の増築のあった頃から胚胎していたものであったそうだ。町長、町会議員の選挙の時々に、行われていたいろいろな術策なども、法律上からいえば、立派に一つ一つの罪状となっていたのである。父親の行為からいえば、二年の刑期はむしろ軽いと云わねばならぬ。
「それが私の腕一
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