と、根柢のある心の修練を積んでおかなければ、不安な心持もしたのである。姉の発病以来、浩は自分の心があまり思いがけない作用を起すことに我ながら驚ろかされている。
 或ることに対して、ふだんこう自分はするだろうと思っていたこととはまるで反対に、或は同じ種類ではあっても、考えもしなかった強度で、いざというとき心が動いて行く。ふだん思っていることは、もちろん単に予想にすぎないのだから、絶対にそうなければならぬものではないが、あまり動じ過ぎたと思うことはしばしば感じられた。むやみにびっくりし、感歎し、悲しみ、歓び、たとい僅かの間ではあっても、ほとんどその感情に自分全体を委せてしまうようなことのあるのは、嬉しいことではなかった。いかにも軽浮な若者らしいことも苦々しかったのである。
 単に浩にとってばかりでなく、お咲の病気は家中の者の心に、大変有難い目醒めを与えた。散り散りバラバラになっていた幾人もが、彼女のために一かたまりになって働くというのは、今まで感じられなかった互の位置とか力量とかを認め合う機会ともなり、かなり純な同情をお咲に持つことも出来させて来た。いろいろな苦労はあっても、皆の心は割合に穏やかに保たれていたのである。
 その晩は大変蒸暑かった。星一つない空から地面の隅々まで、重苦しく水気を含んだ空気が一杯に澱んで、街路樹の葉が、物懶《ものう》そうに黙している。
 かなり長い路を、病院から帰ってきた浩は、もういい加減疲れていた。小道を曲って、K商店の通用門を押した。厚い板戸がバネをきしませながら開くと、賑やかな笑声が、ドーッと一時に耳を撲《う》った。明るい中で立ったりいたりするたくさんの人かげが、硝子越しに見える。外界からの刺戟にも、内面からの動揺にも、絶えず緊張し通して一日を送った彼は、せめて寝る前僅かでも、静寂な、落付きのある居場所を見出したかった。
 陽気すぎる中に入れきれずに暫く立っていた浩は、やがて思いなおして、一歩入り口に足を踏み込もうとした瞬間、隅の暗がりから、不意に彼の袴を引いたものがある。
「浩君! ちょっと……」
 彼をもとの往来に誘い出したのは、庸之助であった。街燈の下まで来ると、彼は立ち止まった。憚《はば》かるようにキョロキョロと周囲を見まわしてから、一枚の地方新聞を浩の前に突出すと、往き来するものが、浩のそばへよらないように、彼の体の近くを行き
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