い重い、弱々しい声が洩れた。咲二を縁で遊ばせていたおらくは、悲しそうに頭を振って数珠を揉んだ。
東京へ返事を遣るに就いても、彼はずいぶん頭を悩ました。浩へ手紙を出すにはこの上好い機会はない。ついいそがしいのにとりまぎれたようにしてやれば……。孝之進は散々、迷いぬいた末とうとう最初の思いつきを決行した。きわめて何でもない心持でいるつもりでありながら、「浩殿」と書くときに、妙な感じが心に起った。筆が思うように動かないで、やや画の不明な幾行もの字の終りに、「浩」というのばかり丁寧に念を入れて書かれたように見えていた。
秋もだんだん末になって来た。肌寒い或る晩、机に向っている浩の目には、ちょうど窓前の空地にたった一本ある桜の若木が眺められた。青く動かない空の前に、黒く浮いている葉が、折々風の渡る毎に、微かな音をカサカサと立て、今散ろうとする小さい朽葉が、名残を惜しむように、クルクル、クルクルと細い葉柄一本に支えた体中で、舞っているのなどが見えた。
鉛筆を握ったまま、ぼんやりと葉の運動を見ていた浩は、そのときフト、頭の傍の電燈の方から、何か小さいものが、ちょうど塵のように落ちて来たのを見つけた。古手帳のやや黄ばんだ紙の上に、音でないほどかすかな音――何か落ちるということの素早い連想ばかりで感じられるような――を立てて来たのは、一匹の小さな小さな虫であった。
体全体の長さが、鯨尺の一分にも足りない、針の元ぐらいの頭に、ようようこれが眼かしらんと思われるものが二つついている。見れば見るほど、小さいながら、調った、美しいというに近いほどの体形をしている。けれども、どうかしてもうすっかり衰えきって、三対あったらしい脚も、二本は中途から折れて、胴の傍に短かく根元がついている。すべてが、実にこまかく、きゃしゃにまとまっている。まるで生きていられることさえ疑われるほどである。が、羽根が見えない。紙の上に目を摺りこむようにして見ると、虫は仰向けになって、落ちて来たらしい。細い体に敷かれて、半透明な羽根が僅かばかり覗いていた。
暫くの間虫は脚一つ動かさず、非常に静かにしていたが、やがて急に、真中の一対の脚を高く振りかざしながら、ごく狭い範囲――拇指を押しつけたくらい――の中を、頭を中心にしてぐるぐる、ぐるぐると動きまわった。
実にかすかな、小さい運動ではあるが、虫にとっては大変に
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