て、自分があんなに癒してやろうと思った誠意から、ほんとうにただ一つの真心から、こういう結果を引き起したということが、一層彼女の苦労を増させたのである。
「これというのも私共が貧乏なばっかりに起ったことだ。立派なお医者様にかけられる身分なら、誰が大事な独り息子を、禁厭《まじな》ってもらいなどするものか! 貧乏だと思って皆が、虐《い》じめるからこんなことになってしまったんじゃあないか!」
精神過労が、彼女の病気を悪い方へ悪い方へと進め、終日発熱したままで過ぎるようになると、感情はますます興奮して、ヒステリー的になった。咲二のことを云い出すと、誰彼の見境いなく、「あなたもあれをいじめて下さったんでしょう」とか「おかげさまで、あれもとうとう気違いになりましたよ!」などと云っては、喧嘩を持ちかけた。
咲二が変になって、三日とならないうちに、お咲はまるで見違えるほど、※[#「うかんむり/婁」、179−7]《やつ》れた。不眠症にかかって、眠りの足りない青い顔に、目玉ばかり光らせている彼女の頭は、次第に平調を破って来た。幾千もの豆太鼓を耳のうちで鳴らしているようで、人の声が何か一重距てた彼方に聞え、石炭殻を一杯つめたように感じる頭を、ちょっとでもゆすると、ガサガサと一つ一つになったたくさんのものが、彼方の隅から此方の隅まで、ドドドドーッところがりまわる気持がした。五つか六つの子のように、オイオイ泣くかと思うと、直ぐ止めてきょとんとしながら、咲二と並んで、のんきそうに空をながめていたりした。
その朝は、おそろしい上天気であった。深い朝露――霜にはまだならない、あのたくさんな露――でキラキラ光り輝やいている、屋根から木立から落葉まで、ほとんど一睡もしなかったお咲の心には、あまり刺戟が強過ぎた。彼女は呆然瞳をせばめて、靄《もや》のかかった彼方を眺めていると、不意にどこからか咲二が来て耳元で「かげが! かげが※[#感嘆符二つ、1−8−75]」と叫んだ。彼は平常になく腰を折るほどに力を入れて、歌うように調子をとってどなったのである。お咲は、ハッと気がはっきりした。そして咲二の顔を見、声を聞いたとき、彼女の心のうちには、彼の日の記憶――咲二が昏倒したときの場面――が、スルスル、スルスルと繰拡げられた。名状しがたい感情の大浪が、ドブーンと吼《うな》りを立てて打ちかかって来た、その刹那、彼女
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