、負けずに愚弄するのを見ると、庸之助の病的な憤怒が絶頂に達した。激情で盲目になった彼は、もう口で喧嘩をしている余裕がなくなった。握りかためた両手の拳固が、二人の男の頬桁《ほほげた》に、噛みつくように飛んで行った。生活に疲れていた庸之助の頭は、全く常軌を逸してしまった。真黒になって、手あたり次第擲ったり蹴ったりしたのである。忽ち人が黒山のようになる。或る者が交番へ走る。巡査が来たッ! と云う声が群集の中から起ると、今まで同等な敵として、庸之助を、同じくらい夢中になって撲ったり、突飛ばしたりしていた俥夫は、サット手を引いた。鑑札を調べるとき、「おまわり」は彼等にどのくらい勢力を持っているかということをよく知っていたのである。
 で、攻撃の態度を変えて、ひたすら防禦しているように、庸之助の降らす拳固を、腕で支えたり、「まあ、まあ」と云いながら後じさりをしたりした。で、巡査が来たときは、さも「悪い奴」らしく、庸之助が鎮《しず》めにかかる俥夫を狂気のように撲っていたのである。
「コラコラ、一体何事じゃ?」
 佩剣《はいけん》を、特にガチャガチャいわせて、近よりざま、振り上げた庸之助の手を掴んだ。俥夫は汗を拭き拭き、出来るだけ上手に弁明し始めた。
「私《わっち》がへい、このお客さんをのっけて……」
 片手で指さしながら、振り向くともうそこには、さっきまでいたはずの、客の影も形もない。
「オヤ、いねえや……」
 見物人が、崩れるように笑いどよめいた。俥夫が喧嘩しているうちに、客は只乗りをして逃げてしまったのであった。
 とうとうすぐ傍の交番へ引かれて、軒先に燈っている赤い小さい電燈を見た瞬間、どこかへ行っていた庸之助の正気が、フーッと戻って来た。
「俺は一体何をしたのだ? 馬鹿な!」
 庸之助は、もうジッとしていられないほどの心持になった。彼が口癖のように云い云いした、「良心の呵責」が一どきに込み上って来たのである。
 巡査は酒を飲んでいるかと訊ねた。飲んだと答えはしたものの、実際は飲んでいなかった。けれどもどうにかして、こんな下らない、恥かしい自分の位置の弁護となる理由を探したかったのである。傍にいた年寄が、酒の上のことだからとしきりに、庇ってやった。そして「お互に若いときというものは、とかく気が荒いものでなあ」などと、巡査に巧く勧めた。ちょっと見物の手前、訓戒めいたことを喋っ
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