級であった桃子の兄嫁のところへ、ただ洋裁の仕事先として多喜子は来ているのであった。
 仮縫いの方を着て尚子が立っている背中の皺にピンをしているところへ、襖の外から、
「いい?」
 声をかけて、桃子が入って来た。
「ちは」
 学生時代のまんまの符牒のような挨拶を、ピンを唇で押えているので口の利けない多喜子に向ってかけ、桃子はすこしはなれたところからぐるりと尚子の立ち姿を見まわした。
「いいじゃないの、なかなか」
「よかったわね、やっぱりこのカラーの型にして」
「そりゃそうさ、お嫂《ねえ》さんたらVにするなんて。そんなのないわ」
 裾の長さまできめてから、多喜子は自分も立ち上って、出来栄えを眺めた。
「思ったよりよかったこと――お袖のところいいかしら? つれません?」
「――いいようよ」
 桃子が、
「原さん、すっかり板についちゃったなあ」
 感歎するように云った。
「本ものになっちゃった。これでお顧客《とくい》さえふえりゃ堂々たるもんだわ」
「ベビー服で降参するだろうって云った人だあれ。せいぜい紹介してよ」
 ピンを肌に刺さないように、そしてまた折角さしたピンを落してしまわないようにと、むき出しの両腕を揃えて頭の上へ高くあげ、それなり半身を前へかがめている尚子の頭の方から、仮縫いの服を脱がしかけていると、廊下を、ゆっくりした足どりのスリッパの音が近づいて来た。尚子が耳敏く、
「お兄様じゃない?」
 桃子に、
「ちょっとまって頂いてよ」そう云っているうちに、
「いいですか?」
 すこし改ったような咳払いをして幸治が外から声をかけた。
「だめよ、今入っちゃ。まだ猫に紙袋よ」
 笑いながら桃子が大きい声を出した。
「ほう」
 また咳払いをする声がする。
「はい、どうぞ」
「やがて尚子が自分から幸治のために襖をあけてやった。
「や、しばらくでしたね」
 袷の対を着て、きっちり髪をわけている幸治は、武骨っぽいずんぐりした体つきに似合わない軟かい笑いをたたえて、テーブルのところへゆっくりした動作で坐った。
「随分しばらくお目にかかりませんでしたね」
「ついかけちがって……」
 多喜子はほかに云いようもないのであった。
「おかぜなんですって?」
 すると桃子が、
「やー、お兄様」
とはやし立てた。睨むような眼差しをするうちにも尚子は笑いを抑えられない風である。飲みすぎか、怠けぐらい
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