なかった?」
「平気よ。――きのうだか早速着て出かけたわ」
 多喜子は、ちょっと躊躇していたが、やがて、
「実は私、こないだのあの方たちの話、余り妙な気がして……」
と云った。
「私の仕立屋さんとしての面でだけ受け切れないようなところがあって」
と苦笑した。桃子は、とっさに何のことか見当がつきかねる風であったが、
「ああ」と、軽くうなずいて、
「あのひと達ああなのよ」あっさり煙草の灰をはたいた。
「そう云ってしまえばそれっきりみたいなものだけれどさ。――私桃子さんの生活が、やっぱりああいう空気の中にあるんだと思うと、それでいいのかしらって気になるわよ」
「大丈夫よ、原さんたら!――相変らずねえ」
 どこか微《かすか》に誇張されたところのある快活さで桃子は陽気に多喜子の背中をたたいた。
「私は私よ。お互があれで幸福なんだから、はたでかれこれ云うに及ばないのよ」
 私は私と桃子がいう、その気持の内容がはっきりせず、謂わばそんなに手際よく自分だけ複雑な生活の中で別者のように云っていられる心持が多喜子には納得ゆかないのであった。桃子のそういう態度は大変怜悧なようで、その実自分の心持を見守る手数をどこかで省いているか、投げているかのように感じられるのである。
 音楽も抜群であるし、絵をかかせればやはり目をひくだけの才気を示し、人の心の動きを理解する力も平凡ではないのに、桃子にはとことんの処へ行くとすらっと流れてしまうものがあった。一本気なところのなさが、桃子のいろいろの才能をも、つまりはちゃんと実らせない原因のようであるし、多喜子はそのことをもやっぱり桃子の毎日の境遇ときりはなして見ることは出来ないと思うのであった。
 頭脳の明敏な愛嬌にほんのぽっちり面倒臭さを露わに示したうわて[#「うわて」に傍点]な親密さで、桃子は、
「さ、あなたはどっちへ帰るの? きょうはあなたの護衛の騎士になってあげるわよ」
「ありがとう。でもきょうはいいわ、五時に日比谷で原に会うの」
「ハハア」桃子は抑揚をつけてそう云いながら大きく顎をひいて芝居がかりの合点をすると、手にもっていたベレーを振って、シラノ・ド・ベルジュラックが舞台でやるような挨拶をした。
「じゃ私さっさと消えるわよ、さよなら」
 ヴェランダの降口まで足早に去って、桃子はそこからもう一度こっちへ顔をふり向け、腹立ちより寥《さび》しい気分
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