越智さんが来るときっと洗面所へ行って白粉をつける」小さい子のように姉にそういいながらも、母には「お母様、なぜ」と、そのことについてじかにはきかない二十歳の保の青春には、母にわかっていない複雑さがある。多計代は、どうしてこんなに簡単に、保のことは隅から隅まで自分にわかっていると思いこんでいられるのだろう。
しかし、保のなかには伸子の生れつきとはちがったものがあって、姉と弟という以上に、保は伸子から自分をへだてているところもある。
思ったより早くかえって来た姉弟を見て、
「どうした」
素子が意外そうに出て来た。
「留守だった?」
「いいえ。温室は見たのよ、ね保さん。でもうちの方へはよらないで来たから」
出がけにこだわった気分をかえて、素子は二人のために食卓の世話をやいた。
食後、素子がその頃流行していたダイアモンド・ゲームを出して三人で遊ぼうといった。保は、
「僕、やったことがないから……」
とことわった。
「やったことがないって」
眼を見はるような表情で、素子は、
「こんなもの!」
そこへ、赤、黄、青と小さくコロコロしたコマをあけた。
「子供のやる遊びですよ。出来ないなんてことあるものか」
「――でも、僕やったことがないから……」
とうとう、保はその遊びをしないで、間もなく帰って行った。
「あのひと、どういうんだい、おそろしく変ってるね」
送り出したかえりの廊下で、素子があきれたようにいった。
「あんな高等学校の学生ってあるもんか。――あんなじゃ一人前になれやしないや」
素子の観察は、伸子に同感された。しかし素子が自分では感じていないもう一つの原因も、保の気分を支配したように思えた。パイプをくわえたままの顔を横に向けて、御飯をよそってくれ、袂の袖で腕ぐみをする素子のものごしや口調は、女を少女らしい特徴で意識しはじめている保の感覚にきっと居心地わるかったのだろう、と。
九
なか三日ばかりおいた午後、不意に竹村が訪ねて来た。しとしと雨が降っている日だった。机について翻訳の仕事をしていた素子が、
「不意に――どうしたのさ、用ですか」
面倒そうに縁側に目をやった。竹村は玄関にまわらず、柘榴の樹かげから庭へ入って来ていた。
「渋谷まで出かけたもんだから……いそいでかえっても、この天気じゃ仕事がないしね」
こっちの部屋の机のところには伸子がいた。やはり机に向ったまま、
「この間はどうもありがとう」
保に温室を見せてもらった礼をいった。
「どうしまして……」
素子があがるようにいわないので伸子も黙っていた。
「――一服させて貰うよ」
玄関から竹村はひとりであがって来て、素子のいる座敷の敷居ぎわへ自分で座蒲団をもち出した。素子はそのまま仕事をしている。伸子はとよ[#「とよ」に傍点]にお茶をたのんだ。竹村はその辺にあった雑誌をよんでいる。
そのまましばらくの間三人は黙ってばらばらにいたが、伸子にはそれが気づまりだった。そんなに放り出しておくほど竹村にたいして日ごろ内輪のつきあいをしているわけでもない。素子の声にもそぶりにも竹村が予期しないとき来たのをよろこばない調子が見えている。竹村の方ではまた、その感じをどこかでおしきろうとしているところがある。どうせ落ちつかなくなってしまった伸子は机をはなれて、隣座敷へ出て行った。
「どうして? もうあのカーネーションはみんなきってしまったの」
「いやまだ三分の一ぐらいのこしてある。――何君といったっけな、君の弟さん」
「保」
「ああ、保君か、案外くわしいんだね。玄人だよ。土の配合なんかすぐ当てたよ」
「小学校の時分からすきでやってるから」
素子が、腰かけている机のところから、
「うるさいじゃないか、なにも出来ゃしない」
といった。
「そうよ、だから仲間入りした方がいいのよ」
茶の間も、伸子の部屋の裏の長椅子の部屋もあいていたけれども、伸子は竹村をそっちへは案内しなかった。うるさがりながら一つ室にいる方が素子の気持にとって自然なのだった。
「仕様がありゃしない」
やがて、素子も卓のところへ来て坐った。共通の先輩であるロシア語の教授が、最近のソヴェト文学について本を出した。竹村と素子は、その本の噂をした。話題はいくつか移ったが、気のりがせず、伸子はしばしば中座した。
とよ[#「とよ」に傍点]に縫いもののつぎきれを出して座敷へ戻って来てみると、竹村があぐらをかいた膝の前に二つ折りにした盤をおいて、
「何だって――ピヨン、ピヨン?」
ヨをピと同じ大きさで発音している前に、重そうな髪を無造作に束ねた素子が腕組みして、むつかしい顔で坐っていた。
伸子は、その光景がなんだか滑稽で、
「出しかけたの?」
と笑った。
「ピヨン、ピヨンて――なんのことだろう」
前へ
次へ
全101ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング