唐辛子、ぬいだんでしょう? だからゼーゼーになったんでしょう?」
 よわいつや子は冬から春にかけて、いつも赤い毛糸でこしらえた下着をきせられていた。つや子ちゃんの唐辛子は佐々の名物で、小学三年になったつや子はそれをきまりわるがった。
「僕、もう唐辛子きないでいいのよ、ずっと前ぬいだんですもの」
 兄たちばかりのなかに育って、つや子は僕、僕、といった。蒲団のまわりに、南京玉の箱や色紙がちらばっている。賑やかな日向の色どりの中につや子の稚い顔は蒼ぐろく小さかった。
「大きいお兄さまは? お留守?」
「うん」
「おかえりになりますでしょう。飯倉へ御電話かけましたから」
 お志保さんは、飯倉という響を何となし特別にいった。その伯父の家には冬子と小枝という従妹たちがいて、和一郎はよく泊りがけで行っているのであった。
「保ちゃんは? 御勉強?」
 つや子は、
「うん」
 自分が学校をやすんでいるつや子は声よりもよけいつよく合点して、首をすくめるようにした。
「ちょいと保ちゃん見て来るわ、そしたらまた遊びましょう、ね」
 同じ二階の北側に長四畳があり、そこが保の勉強部屋になっていた。襖をあけようとして、伸子は鴨居にはられている細長い紙に目をひかれた。鴨居の幅きっちりに切った白い紙にフランス風の線の細い書体をのばして Meditation と書かれている。伸子は、はっきりしないおどろきに心の全面をうたれて、その一つ一つの綴りを辿った。メディテーション。――瞑想――。こういう字が、保の部屋の入口にはられている。保が自分で書いてはって、その内にこもって勉強している。どういう意味なのだろう。不自然なこだわるもののある感じがした。高校の学生たちの生活、ものの考えかた、そして仲間同士の暮しかた。それは、保の貼紙の気分とはちがったものに想像されていた。活気と若々しい野望と意慾とがむら立って想像されていた。京大で社会科学研究会の学生が三十余名検挙されたりしている頃であった。伸子はそういう事件の意味はわからなかった、伸子の生活からも文学からもはなれたところにおこっていて、その意味のわからなさと激しさとで、伸子をいくらかおじさせていることなのであった。保の生活がそういう学生の動きとはちがっている。伸子はそれにたいして批評をもたなかった。けれども貼紙の文字は伸子の本性に抵抗を感じさせ気にかかるのであった。
「保さん、いる? あけてもいい?」
 伸子は、唐紙のひきて[#「ひきて」に傍点]に手をかけてきいた。
「ああ、姉さん? いらっしゃい」
 保は、勉強机に向ってかけ、ひろげた帳面にフランス語の何かを書きうつしていた。北側の腰高窓があけはなされていて、樹木の茂った隣の奥ふかい庭が見おろせた。梢をひいらせている銀杏《いちょう》の若葉が、楓の芽立ちの柔らかさとまじりあって美しく眺められる。
「いつ来たの、僕ちっとも知らなかった」
 保のまぶたはぽってりとしていて、もみ上げや鼻の下に初々しい和毛《にこげ》のかげがある。
「さっき来たばっかり」
 伸子は、ちょっと黙っていて、
「お客なの知っているの?」
ときいた。
「ああ」
「おりて行けばいいのに……」
「――僕はこの間家へ行って会ったばかりだから別に話もない」
 保は、おだやかにいって絣《かすり》の袷《あわせ》を着た大きい膝を椅子の上でゆすりながら隣の庭を眺めおろしていたが、
「姉さん、きょう泊って行くんでしょう」
ときいた。
「そう思って来たんだけれど……」
 伸子のこころもちは、やがてどうきまるにしろ、今はとりつくはしを失っているのであった。
「じゃあ僕、これだけしてしまってもいい?」
 保の勉強机の上には、学校での時間割のほかに、細かく一週間を区分した自分の勉強表がおいてあった。
「どうぞ……じゃあとでね」
 自分のうしろに保の部屋の襖をしめてその部屋を出ながら、伸子は、広い佐々の家のなかに、自分が落ちつく場所というものは一つもなくなっていることを痛感した。

        二

 心と体の居場所がなくて、あちこちをふらついていた伸子は、漂いよったように古風な客間に入って来た。榧《かや》や楓、車輪梅などの植えこまれた庭は古びていて、あたりは市内と思われない閑寂さだった。竹垣のそとで、江田がホースを使っている水の音がきこえた。
 くつぬぎ石、苔のついた飛石。その石と石との間に羊歯《しだ》の若葉がひろがっている。煤竹《すすたけ》の濡縁の前に、朴訥《ぼくとつ》な丸石の手洗鉢があり、美男かつらがからんで、そこにも艶々した新しい葉がふいている。茶室づくりの土庇を斜にかすめて黄櫨《はじ》の樹が屋根の方へ高くのびている。
 庭下駄の上へ、白足袋の爪先を並べてのせて、伸子はやや荒れている客間の庭を眺めていた。
 庭に一人向って
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