情も、越智の白い夏服の立襟をきちんとしめて、とりすましたような工合も伸子の気質の肌に合わなかった。普通にいえばよく似合っている縁無し眼鏡も、寸法どおりにきまって、ゆとりと味わいのない越智の顔の上にかかっていると、伸子は本能的に自分が感じている彼の人がらの、しんの冷たさや流動性の乏しさを照りかえしているように思うのだった。
そのスナップ写真を伸子と顔をよせあうようにしてしげしげ眺めながら、多計代が、
「伸ちゃん、お前、純子さんてひとを、どう思うかい?」
ときいた。伸子は、そのとき、母の唐突な質問に困った。
「だって、わたし、このかたにまだ一遍も会っていもしないのに……」
「そりゃそうだけれども、この写真をみてさ。伸ちゃんは、どう感じるかって、いうのさ」
伸子は、そういう多計代の詮索を、苦しく感じた。伸子は、恋愛の思いを知っていた。結婚した夫婦生活の明暗もある程度はわかっている。いまは女友達とひとり暮しをしているけれども、伸子は母のききかたに、女としての感情の底流れを感じ、それは成長した娘としての伸子の心に苦しいのであった。
「旦那さまが好きらしいし、ある意味で美人だし……問題はないじゃないの」
「問題になんかしているんじゃないけれど……」
多計代は、ふっさりとして大きい、独特に古風な美しさのあるひさし髪を傾けて、なお写真をみていたが、
「純子さんて人は、おかしな人だねえ。時々ひどいヒステリーをおこすんだってさ。越智さんが出かけようとすると、出すまいとして玄関にはだしでとび下りて、格子に鍵をかけてしまったりするんだそうだよ。まるで気違いみたいになるときがあるんだって」
誰から、どんな風に多計代はそういう話をきかされるのだろう。それを思うと、伸子は夫婦の間のそんな話や、越智と多計代とが純子についてそういう話をする情景そのものにいとわしさを感じた。
「自分の細君のことをそんな話しかたで話すなんて――お母様の趣味? そんなこと――」
伸子は、肩でぶつかってゆくようにいった。多計代は黙った。そして、とりあげて見ていた写真を、テーブルの下にある手箱の中へしまいはじめた。
一月ばかり前に伸子が来たとき、多計代は黒い瞳を機嫌よい亢奮でかがやかせながら、
「――越智さんは純粋な人だねえ」
といったことがあった。
「そうお?――どうして?」
うたがわしそうな伸子のききかえしにこだわらず、多計代は、
「僕が、もし純子と結婚していなかったら、きっと奥さんに求婚したでしょう、だって――」
そういう多計代のこだわりのない満足らしさが、伸子をおどろかした。
「だって――」
じゃ、お父様はどうなるの? 伸子の心に声高くその反問が響いた。
「ありえないじゃないの……そんなこと!」
まばたきがとまったような表情になった娘をちらりと見て多計代は、
「だからさ」
といい添えた。
「ただ、そうだったろう、というだけの話なのさ」
けれども、越智のある厚かましさが伸子の胸に鋭く深くきり込まれた。多計代はそう感じていないらしいけれども、そんな越智の言葉は、母をほめているようで、ほんとは母も父も侮辱しているところがある。そういう、越智に対する伸子の否定的な感情は、越智にも反映していた。母娘の間で意見が合わないようなことがあるとき、多計代は、自分の感情に重ね合わした憎々しさで云った。
「越智さんだってこの間云っていたよ。伸子さんという人は、破壊のために破壊をする人だって――」
そんなとき、伸子は唇のふちが白くなってゆくのが自分でわかったほど激しい嫌悪にとらわれた。
客間のドアは、ぴったりしめられている。越智に対する伸子の批評に向ってしめられている。伸子は、そのハンドルにかける手をもっていない自分を感じるのであった。
心のおき場がなくて、伸子は保の勉強部屋へあがって行った。
二階の日あたりのよい畳廊下で赤いメリンスしぼりの蒲団をかけ、小さいつや子が、お志保さんに本をよんで貰っていた。背中をかがめて膝の上に支えた手の本をよんでいるお志保さんのうしろに伸子が現れると、
「ああ、お姉ちゃまが来たア」
つや子が、いかにも、その変化をよろこぶように声をあげた。
伸子は、つや子が病気だとは知らなかった。
「どうしたの? 又ゼーゼー?」
末子のつや子には、喘息の持病があった。
「二三日前雨がふりましたでしょう? あのとき学校から、ぬれておかえりになったもんですから」
「なに読んでるの?」
「アラビアン・ナイトでございます」
つや子は、左右にたらした短い編下げの頭をふるようにして、
「お姉ちゃまア」
と伸子を見あげた。
「ここへ坐って! あったかよ」
伸子は、ふとんと同じメリンスしぼりのねまきを着ているつや子を半分自分の膝によりかからせた。
「つや子ちゃん、
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