子は感情を動かされた。
 伸子はカーネーションの花の美しさよりも、夜の鏡にうつる自分の白い影にくちばしをぶつける白い雄鳩の話により深く心を動かされた。けれども、伸子はそのこころもちを素子にも竹村にも話さなかった。二人は懐中電燈をもった竹村におくられて、くらい竹やぶを通りぬけ、宵の口にうちへ帰った。

        八

 翌日、伸子は自動電話で保をよび出した。そして、竹村の温室のことを話した。翌々日が日曜日だった。保は十時ごろ伸子のところへ一旦よってそれから見にゆくときまった。
「ここへよって行くって――誰が案内するんだい」
 電話をかけて帰って来た伸子の顔を椅子の上から素子が見あげて、気むずかしげにいった。
「わたしゃ、そんなお供はごめんだよ」
 伸子は当惑して、素子の椅子のよこに立ったままでいる足をふみ代えた。
「……あなたに行かせようと思っていたわけじゃないけれど」
「ぶこちゃんが、またわざわざついて行こうってのかい」
 そうときめていたわけでもなかった。伸子は保に、あんなにきれいにカーネーションの咲いているところを見せてやりたいとだけ考えた。保をつれて行ってやることなどはひとりでに解決されると思った、というより、とりたてて考えていなかった。素子は、
「なんだ! あんな温室ぐらい」
 そういってわきを向いた。素子は、伸子が大袈裟にさわぎ立てているという風に不快を示している。それは素子の感情的なうけとりかたに思えた。
「わたしがどうというのじゃないのよ。保の部屋の鴨居の貼紙のこと、話したでしょう?」
 伸子は、真面目にいった。
「わたしは、保が心配なのよ。あのひとには、何かしてやることがあるにちがいないのよ。だから、花も見せたいの」
「――ともかく、私はごめんだ……」

 日曜日の約束してあった時間、ほとんどきっかりに、東京高校の黒い制服をきた保が訪ねて来た。多計代のおみやげの、虎屋の羊羮を出した。
「保さん、ここはじめてでしょう」
「ああ」
 保は、目新しそうに庭や竹藪を見まわした。
「きょうは夜までゆっくりしてゆくんでしょう?」
「僕、夕飯までに帰る。――お母様にそういって来たから。……間に合うでしょう?」
「それゃ、間には合うけれど……ともかく行きましょう」
 伸子が帯をしめ直しに玄関わきの六畳へ入ったあとから、素子がついて来た。懐手《ふところで》をして、
「結局、行くんじゃないか」
 おはしょりを直している伸子にいった。
「行きましょうよ、一緒に。保にかわいそうだから――ごたついたりしちゃ」
 そういう伸子の心には、きつい激しい思いがあった。もと佃と赤坂に暮していたとき、丁度夕飯時分ふらりと和一郎が来たことがあった。大震災のあと間もないときで、佃が崩れた小壁に紙をはって働いていた。そこへ和一郎が、姉さん、いる? とのんびり入って来た。佃は、家の修繕などに熱中しないこころもちになっている伸子に対して不愉快でいる感情を和一郎に向け、役にも立たず御飯をたべにばっかり来る、という意味を、和一郎がきかずにいられないような調子でいった。しばらくして、和一郎が、姉さん、僕、帰る、といって、伸子が玄関に出てゆくのも待たず出て行ってしまった。それきり、和一郎は佃の家へ来ることがなかった。
 保に、温室を見せてやりたい伸子の、そのこころもちは、温室をやっている竹村への興味などとは全く別のものであった。口にそういわないでも、素子が拘泥している不機嫌は、その点の勘ちがいである。伸子は、そんなことを弁明するさえ必要ないと思った。保をいじらしく思っている心で行動するのに。――素子にかまわず伸子は仕度を終り、もう一度、
「来て頂戴ね」
 そういって、保のいる座敷へ戻った。
 素子は、決心のつかない表情で伸子が出かける玄関口まで来たが、とうとう来なかった。
 伸子は、保に鵞鳥も見せたいと思い、おととい通った道順そっくりに、白い小花の咲いている灌木の茂みのところを行った。
「いる! いる!」
 伸子はよろこんで、
「ほら、いるでしょう」
ときょうもなきたてる鵞鳥の群を見せた。
「七面鳥は桜山でも飼っているけれど、鵞鳥って珍しい」
 夏休みに行く田舎の家のある村の名をいって、保は伸子と道ばたに並んで鵞鳥を見た。保が、柵の外の道からポンポンと手をうって歩くと、鵞鳥はしばらくそれに平行に歩いて来た。
「お留守でなくて、よかった」
 温室の外で働いている竹村の姿が目に入ったとき、伸子はわざわざ来た保のために在宅をよろこんだ。保は、研究的に、土の混ぜあわせ方の比率だの、温度だのについて竹村にききながら、カーネーションの間をゆっくり歩いている。竹村の、年の割に枯れた皮膚の、眉間に大きい縦皺をもつ顔は、温室に花を育てる人として自然に見られた。けれども、上まぶた
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