たずとも、といった。蕗子も同感して、そうきめて帰って行った。伸子も、あのときはやはりそう思ったのだったが、考えてみると、その結論には少し妙なところがあった。食うに困らないということが、その娘たちにとって親がかりの生活を意味している以上、その娘たちの心にも、何かの形で伸子が苦しんだとおりの「大きいお嬢様」としての苦痛があるのだろう。伸子の母は、伸子が佃と結婚したとき、勝手な結婚をするなら経済上のことも万事自分の力でやって見せろ、といった。新しい蒲団一枚こしらえずに、伸子は育った家を出て、西日が座敷の奥の壁までさし込む路地の横町の家へ佃と移った。あの白衿をきちんと合わせた吉川という娘が、いろいろな意味で親の掣肘《せいちゅう》の少い生活に入りたいと思って、職業のことも考えているなら、男の失業がこんなにも多いからといって、人間として伸びようとする女に就職しない方がよいということは、残酷なことに思えた。しかし、吉川が一人就職すれば、どこかで一人失業する人のいるのは明白だし、その人は男であるにしろ女にしろ吉川よりもっと切実な生きるてだてとして職業がいる人かもしれない。――伸子には、そういう現実の複雑なくいちがいが、どこで解決されるべきものなのかもわからなかった。
竹村は、婦人の経済的な独立ということから移って、女性文化ということをいった。これまでの日本は男の社会すぎた。もっと女性の力が発揮されるべきだ、という意味で。
「――でも、私には、それだけじゃよくわからないわ。女のひとが、自分の力で金をとって、それで自分が暮したいように暮す……それっきりでおしまいじゃ、なんだか足りないものがあるわ。なんのために、そうして暮したいように暮すんだか、そこがはっきりしなくちゃ」
これは、当然素子と伸子自身の生活ぶりにかかわっている感想である。素子は、火のついていない赤いパイプをかんでいたが、
「初耳だね」
伸子にだけわかる、いくらか変った声の表情でいった。
「そんなこと、ちっとも話さなかったじゃないか」
みんながしばらく沈黙している間をおいて、また、伸子がいった。
「たとえば、雑誌一つ出すにしろね、なんのためにそれが出されるのか、はっきりわからないのに、ただ女がそれを出すからっていうだけで、本当のねうちがあるって云えやしないでしょう?……」
雑誌によせていったが、それをいい出す伸子の心のうちでは、自分の書く小説のことであり、小説を書いてゆく、というそのことでもあった。
しばらくして竹村が、
「むずかしいもんさね」
緊張した空気をほごすように、座蒲団の上で胸をひろげて、のびをするようにしながらいった。
「考えてもきりがないようなもんだし、うちの奴みたいに、てん[#「てん」に傍点]から考えない女も、つきあえたものじゃなし……」
立ち上って、竹村は、
「ところで、きょうは、ひっぱり出しに来たんだ。――ひとつ出かけませんか」
と、伸子を見た。
「どこへ?」
「温室を見せようっていうんです」
去年、細君を離別した竹村は、駒沢の、伸子たちの住んでいる分譲地よりずっと奥に、一人暮しで園芸をはじめていた。
「いま、カーネーションが素晴らしいところなんだ、ね、――行こう」
「いまっからじゃあ……」
素子が、決断のつかないおももちになって、竹村の住んでいるところとの往復の距離をはかるように庭を見た。
「かえりは送って来るよ、宵の口はひまがあるんだ。この頃の気候だと夜中にボイラーをたくだけでいいんだから」
「――ぶこちゃん、どうする?」
「私は行ってもいいけれど……」
「じゃ、行こう、おいしい干物があるから、あれをもってって御飯たべよう」
「来て見なさいとも。びっくりするから……きれいで――」
七
家の門を出て、右手にゆるい坂をのぼりきると、桜並木の通りへ出た。玉川電車の停留場を降りたところから、真直にもう一本桜並木があって、伸子たちの家へ来るには、そっちを通った。その道は、とっつきから、小さい魚屋、荒物屋、八百屋、大工の棟梁《とうりょう》の格子戸の家などが、いかにも分譲地がひらけるにつれてそこへ出来たという風に並んでいる。その間を通って来ると、段々|生垣《いけがき》や、大谷石をすかしておいた垣の奥の洋館などが見えて来る。同じ桜の並木通りといっても、その通りは分譲地でのサラリーマン階級の雰囲気で、ちょいちょいした日用品の買いものに、住宅地の人が日に何べんもとおる通りであった。
坂の上の方をとおっている桜並木は、左右に植えつけられている桜が古木で梢をひろげ、枝を重くさし交しているばかりでなく、並木通りからまた深い門内の植えこみをへだてて建てられている住宅が、洋風にしろ、和風にしろ、こったものばかりであった。外壁に面白い鉄唐草の窓をつけ
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