て出しかけられるリキュールのコップを煖炉前のテーブルの上においた。
「どうぞ御自由に――ちょっと失礼いたします」
 つづいて伸子もその室を出ようとすると、砂場嘉訓が、
「伸子さん、ちょっと」
とよびとめた。立ちどまって、ふりかえった伸子を手まねきして、自分のいる煖炉前のところへ来させた。
「あなた外国へゆくのは大変いいです。――非常にいいです」
 実感のこもった真面目な低い声で、首をふりながら砂場はそういった。
「大きいところで大きく育つこと。これが大切だからね。――これお祝です」
 砂場嘉訓は、いつの間に出したのか百円の札をむき出しのまま伸子にさしつけた。
「ありがとう、お祝は頂くけれど――お金はいらないわ」
「そうじゃない。伸子さん、金というものはいるものです」
 やっぱり低いしらふ[#「しらふ」に傍点]の声で砂場は手をひっこめている伸子を説得する調子でいった。
「これでも何かの役に立つ。もっていくものです、もっていくものです」
 その上拒絶しかねてその金をうけとったまま立っている伸子の顔を腰かけたままの高さからのぞきこむようにして、砂場嘉訓は一段声をひそめて、ささやいた。
「えらくなるには、ばか[#「ばか」に傍点]のまねしなければだめです。ひとがばか[#「ばか」に傍点]だと思うようにすることが大切です、金のことなんかわからないふりしてね」
 なにがいい出されるのかとブランデーやけした砂場の顔に注いでいた視線をおとして伸子はぞっとしたような気もちでその室から出た。
 えらくなるには、ばかのまねしなければだめです。金のことなんかわからないふりして。――どういう気持で砂場嘉訓は、伸子に、彼のこの秘密をもらしたのだろう。この言葉の中に、伸子は砂場嘉訓のかくされた辛酸と悲劇とを感じた。日本とまるで社会の発達の程度も経済の事情もちがうロンドンで、パン、ミルクということしかしらなかった貧しい東洋の画学生だった砂場嘉訓が、イギリスでも一流のアカデミシァンとして暮すようになるまでにへた苦心が、この奇怪な人生哲学のうちにまざまざと語られている。イギリスの格式ばった中流人たちや上流の絵画愛好者の間に存在の道をきりひらき、才能をみとめられてゆくために、砂場嘉訓は洋画の技法に、日本画の筆法を活用して新機軸をあみ出したばかりでなく、むこうの人々にとっては珍らしい東洋の画家という面を強調し、伝統のふかい欧州上流人の生活様式に不案内の弱点を、かえって、おもしろさに転化させて生きて来たのだと思われた。
 金のことなんかわからないふりして――。そういう言葉は金のために砂場嘉訓がどんな苦しい経験をしたかということを、逆に伸子に考えさせた。画商からまるではたかれた金をあてがわれたとき、肖像画の依頼者から画料について、みみっちいほのめかしをされる都度、日本の画家砂場嘉訓は、イギリスのむずかしい金のことはわからないというふりを逆用して画料もじりじりとあげて来たにちがいない。
 郊外の家へ帰って来て、素子に、砂場嘉訓に貰った不思議な餞別の話をしているうちに、伸子は鼻の髄が酸っぱいようになって来た。
「よくて、わたしたちはね、あっちへ行って決して活躍[#「活躍」に傍点]しないのよ。いい? あっちで有名人になろうとするなんて、こわいことだわ」
 伸子は、何かから自分たちの生活を防衛するような眼つきをした。
「ただどっさり観て来るの、感じてくるの、ね? それでいいでしょう?」
 同時に素子としてはどうしてもロシア語をしっかりものにしてかえって来なければならない。伸子は、素子の沈黙のなかに、その主張を感じた。
 いよいよ荷物を運び出す日になった。日本橋の素子の従弟のところから、若いものを四人よこしてくれた。働きなれた人々の手で家じゅうは思ったよりずっと簡単に空っぽになった。そして、最後のトラックが駒沢の家の門から出て行った。手伝いの男たちもそれに同乗してゆき、ふとん類もつみ出した伸子たちは、すっかり建具のとりはらわれてがらんとした縁側で番茶をのんだ。とよ[#「とよ」に傍点]はそのまま駒沢の奥の実家へ帰り、伸子たちは、今晩、老松町の裁縫屋の増田のところへ泊ることになっていた。素子が京都へ立つまでの数日の宿として、そこがきめてあった。いまは空屋となった家のなかから丁寧に雨戸をしめて戸締りし、風呂場のくぐりから外へ出た。そこへも、えび錠をかけるとよ[#「とよ」に傍点]の手もとを見まもりながら、伸子はいよいよこうして日本を離れようとしている自分を痛感した。伸子を、日本にひきとどめるようなものはなに一つない。この家の生活にしろ、どこでの生活にしろ。――しかし、そこを離れるための準備ばかりがされているいま、そのあわただしさと全く事務的ないそがしさをとおして、これまでの生活のすべてがそこ
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