画家であった。しなれない日本流の立礼を、特にこの夫人には丁寧にするという風で、膝を少しかがめて辞儀をした。
「佐々先生、まだかえられないですか?」
「まだですよ、あなた、事務所へ電話をかけていらっしゃいましたか」
「ええかけました。じきかえられるということでした。伸子さん、しばらく」
ひらいた長い二つの脚の間に腹をおとすような姿勢で煖炉まえのベンチにかけた砂場嘉訓は、伸子に向って大きい右手をさし出した。
伸子が小さかったとき、砂場嘉訓は山陰の奥から上京した日本画の画学生であった。袂のある絣のきものを着て小倉の袴をつけた砂場嘉訓は、伸子のうちの客間の真中に文晁《ぶんちょう》の懸物をひろげ、わきに唐紙をのべて、それをうやうやしく模写をしていた。小さかった伸子は時々廊下づたいに客間へ行って、どこか子供をおとなしくさせるような雰囲気のあるその場の光景をのぞいた。
それからほどなく、どういういきさつをへたのであったか嘉訓はロンドンへ行った。パン、ミルク。たったそれだけの言葉しか知らなかった嘉訓は、不自由なところは得意の絵物語でおぎないながら、ロンドンの美術学校を卒業し、やがて日本の文展に純英国流の婦人像を送って特選となり、つづいてイギリスでローヤル・アカデミーの会員になった。そして、一流の洋画家として永年暮していたイギリスをひき上げて、先頃帰朝したのであった。嘉訓は帰って来ると昔なじみの佐々のうちへしばしば出入りした。
「奥さん、あなたののどの線は、美しいです。日本の女には滅多にない。ヴィクトーリア女王ね、あのひとは、そういう美しいのどの線をもっていました。是非、描かして下さい。佐々先生の肖像も。きっと描きましょう。お二人はわたしの恩人だからね」
砂場嘉訓は、永年画架に向って仕事をしているうちにそういう姿勢になったのか。どこにかけても、開いた脚の間に腹をおとして尻をうしろに引いた姿勢となり、ものをいいながらいつもほろ酔いのように、変に柔らかく手頸をふった。そして、上まぶたをほそめた真直な視線で、それも大画家の風貌という風に、ふた息、三息する時間だけ余計にじっとあい手を見た。伸子の幼い記憶のなかにぼんやり浮ぶ若かったときの砂場嘉訓はもっとからだも小さく、無骨で、かたい若者のようだった。今日老大家として現れている嘉訓は伸子に妙に落ちつかない印象を与えた。
嘉訓が帰って間もない頃佐々泰造が、おどろいたように、
「砂場嘉訓という男は、一風変っているね、金勘定をしらないらしいよ」
といったことがあった。
「まさか」
多計代が、否定した。
「あれだけ苦学までした人間じゃありませんか」
「若いときは、それゃ苦労したろうが、とにかく、日本の金の勘定はよくわからないらしい」
泰造と一緒に出かけて、食事の支払いにけたちがいの金を出し、それを注意したら、金の勘定は不得手だからたのむと、札入れを泰造にまかした、というのであった。誰と歩いても、砂場と歩いたひとは、みんなそういうことを云った。
日本金の勘定を覚えない砂場嘉訓は、佐々夫婦の肖像を描くこともなかなか実現しなかった。
「砂場嘉訓て、ああいう人間だったと見える」
そういって、多計代は、砂場が、佐々に紹介される知名の実業家や富豪などの肖像を、どんな高い画料で描いているかというようなことばかり話す、と伸子に告げた。
「あてにする方がばかなんだろう。なにがなんだかわかりゃしない」
砂場嘉訓は日本へ帰ってからはいわゆる画壇というものには余り接近せず、じかに、上流の依頼者へ結びついて行った。フランス絵画の影響のつよい日本の洋画の若い世代は、アカデミックな嘉訓が日本に帰ろうと帰るまいと無頓著らしかった。彼は渋谷の方の、二階に浴室の設備まである洋館に住んでいた。
多計代はこの前会ったときからだの工合がわるかった嘉訓の細君の安否をきき、
「お宅のジョージさん、やっぱりドアのハンドルをみがいていますか」
ときいた。
「みがいています」
砂場嘉訓は重々しく首をうなずけると一緒に、右手を自分の前でふらりとふった。
「いまは、子供部屋のハンドルですハハハ」
「お母さんのお手伝いにもなって、いい道楽をおしこみになったこと!」
砂場嘉訓は、多計代のその言葉に答えず、ちょっとだまっていたが、上まぶたをひき上げるように伸子の方を見て、
「伸子さん、外国へはいつ立ちますか?」
といきなりきいた。今度の計画を砂場が知っていようとは思いがけなかった。伸子は、
「どうして御存じ?」
素朴に意外さをあらわしてきいた。
「わたしのところへは毎日、新聞記者が来ます。いろいろな人がどっさり来ますからね」
「立つのは十一月です」
「きょう何日? 十月二十日ですね、もうじきだ」
泰造が帰るまで、と多計代は砂場嘉訓が来るときまっ
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