「お父さんに出して貰ったらいいじゃないですか――そのくらい」
「そうするしかなければむしろ行かないわ」
双方とも言葉がとぎれた。やがて木下が、自分の仕事として思い出したらしく、
「あなたが、この間うち連載していた小説、あれはもうじきうちから単行本になるんでしょう?」
と伸子にきいた。
「再校が終ったから、じきでしょう」
またしばらく沈黙がつづいた。よっぽどたって、
「じゃあ一つ、こういうことにしましょうか」
木下が、椅子の上で膝をくみかえた。
「いまうちでやっている全集ね。あれへ一冊、あなたと、楢崎佐保子さん、村田壽子さんと、三人で一冊こしらえようじゃないですか」
「ほんと?」
伸子は、われ知らずよろこびで上気した。
「そういう風に出来たら、ほんとにいいけれど……」
その社で、大規模な明治以来の日本文学全集刊行の事業をはじめていた。尾崎紅葉から現代の新進作家の作品まで網羅されて、一人で一冊の割当てをもつ作家もあり三四人で一冊という割当てのもあった。新聞に大広告が出され、流行の一円本出版の先頭をきっている仕事であった。伸子は、全然自分にかかわりないこととしてそれをながめて来た。婦人の作家では樋口一葉しか加えられていなかった。
木下は自分の発案が、伸子にとって経済上の必要をみたすばかりでなく、刊行の仕事そのものとしても、好い思いつきだと考えるらしく、
「そうしましょう!」
自分に向って確信するように云った。
「全集としても、その三人で一冊ぐらいは、あった方がいいものなんだ。そうすれば佐々さんもいいでしょう、借金じゃないんだから――印税をあげることになるんだから」
「いいわ」
伸子は、思いがけなさで、まじまじと木下の蒼い、まるいようで四角ばった顔を眺めた。
「借金じゃ、わたしに返すのぞみはないもの」
「それゃそうです。――ただどのくらいになるかな、どっちみち本が出るのはよっぽどあとだから……」
木下は、何かの算用をした。
「予約ものってものは、いつもはじめのうちよりは、あとになってぐっと減るもんなんだが。……まあ、一万は出せるでしょう」
「それは三人で?」
「いや一人」
「じゃいいじゃないの。行ける」
「一万はひきうけることにします。あと、何か書けたら送って下さい。それは別に原稿料として払いますから……」
予想もしなかった方法で、伸子の旅費のことは、解決しそうになった。
そこへ素子が外出さきから戻って来た。
「おや、これは珍らしいお客さんだ」
素子が椅子にかけるとすぐ、伸子は、
「もっと珍らしいことがおこったわ」
全集に一冊加えて、伸子の旅費が出そうなことを話した。
「それゃよかった。企画としたって、あれだけ揃えるなら、そういうものも一冊はあるべきですよ」
素子は、ちらりと皮肉な笑顔をして、木下にウェストミンスタアをさし出しながら、
「でも木下さん、大丈夫ですか、あなたの一人合点で。――殿様はそうおっしゃいましたそうですが、と、あとから御用人が出るんじゃないんですか」
「相かわらず辛辣だなあ。――そんなことはない。大丈夫です。必ずひきうけました」
数年前、アメリカへ行ってしまっている村田壽子と素子は、昔、親しいつきあいがあった。素子が村田壽子の作品を選んで決定することになり、伸子は自分で、一番はじめに発表した小説と、最近単行本になりかかっている長篇とを入れることにきめた。
「それぐらい具体的になっていれば結構だ。じゃ、ひとつ楢崎さんの方へは、直接社から話させますから」
木下が去ったあとしばらく、伸子は、焦点のちったような視線を、テーブルの上に出ている灰皿の上におとしていた。
「ぶこちゃん! しっかりしてくれよ」
「だって、あんまり思いがけなくて……」
「ものがまとまるときってものは、こういうもんさ。だが、よかったね」
旅費のことで伸子はあんなに途方にくれ、思案にあまっていた。たかが金のことだのにと思う、その金に目あてがつかなかった。木下が、偶然彼自身の屈託からふらりと伸子の家の前で自動車を降りた。小さなきっかけがかさなって、にわかに伸子の旅費の問題も展開した。伸子としては、仕事に立って手に入る金で筋が通ったものだった。
けれども、木下がなにかの気分のこじれで、伸子がそのときの調子でなに心なく云い出した話にとりあわなければ、少くとも、こういう工合で金が出来るようにはならなかっただろう。気分や偶然が作用していると思え、伸子として一生懸命な問題であっただけ、そのことで滅入った。
「なにを、そう拘泥する必要があるのさ」
素子が云った。
「ひきうける以上、さきだってちゃんとそれだけの目算をもってやってることじゃないか。そんなことを考えるなんて――逆のうぬぼれ、だよ。誰が気分だの偶然だので、動くもんか」
前へ
次へ
全101ページ中88ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング