ような紙表紙に、赤い字でブハーリン著史的唯物論と書かれた定価一円の厚い本が、伸子の身のまわりにも現れはじめた。この一冊の本によって社会のなり立ちというものが、いくらか客観的に伸子の前に示された。伸子が、久しい間ぼんやり人間性の発展として文学的に感じて来ていた社会の進歩ということが、生産条件の発展とその推移を中軸として実現するという事実は伸子にとって全く新しい真実であった。社会に階級があるということも、いきなり文学とくっつけてはのみこめなかったけれども、この本のように、階級のなかった原始の社会から、どう人間の社会は変化して来て階級が発生したかと説かれてあれば、伸子にもわかった。一つの発展のうちにふくまれている矛盾そのものに、また次の発展の可能が用意され、進展には固定があり得ないということ、絶対がないということ、解決しきるということは現実にあり得ないこと、それらは、伸子を同感させ、そして実感に迫った。これまで伸子は、保がいつもくりかえす「絶対に云々」という観念をどんなに、うさんくさく思って来ただろう。いつもそれに抵抗を感じて来た。その抵抗によりどころがあったし、それが自然だったのだ。
 伸子は毎日どっさりの時間をその本のためにさいた。部分部分ばかりにふれ、そこからだけ覗いて来たこの人間の社会というものを、その千変万化の複雑さのなかに、矛盾の根柢から解明して、歴史の発展してゆく必然の方向を導き出してゆく社会科学というものの方法は、全く新しい力で伸子の知識慾をみたした。
 伸子は時々その感動を抑えきれなくなった。そして素子に、
「わたし、ほんとにうれしい」
と云った。
「まるで霧がはれてゆくみたい。一つ一つ山や森や河の景色が霧の中から見えて来るみたい。そうじゃない?」
「――」
「ねえ。あなたはそう感じない?」
「うるさいじゃないか、いまこれをしてるのに……」
 素子は、おこったようにはねつけた。
「きのうも、同じこと言ったじゃないか」
「そうだったかしら――ごめんなさい」
 そして、伸子はまたその本に戻ってゆくのであった。
 階級というものの存在は客観的であって、自分自分の主観に立ったこころもちにかかわりない社会的事実である。このことは、伸子を深く考えこませた。人はそれぞれ一定の階級に属し、階級はそのものとしての歴史的な利害をもっている。この客観の事実は、その人が階級というものについて全く無智で暮している場合でも、動かせない現実として存在する。そういうところを読むと、伸子にも、ぼんやりと、リャク[#「リャク」に傍点]に来た青年たちと自分との第三者からみた立場のちがいが、どういうことになるかわかるようにも思えた。伸子は、自分というものが、社会の階級では中産階級という不安定な階級に属す一人の女だということを理解した。自分の仕事をもって、独立の経済で生活しているにしろ、中産階級・小市民という階級に属していることにかわりはなかった。そして、その中産階級というものは、ますます寡頭化してゆくブルジョアジーと勤労階級との矛盾の間にはさまって動揺しており、歴史の発展の中で新しい任務をもちはじめている勤労階級と利害をともにする立場にうつるか、さもなければ、本質的な発展を阻まれたままふるい支配階級とともに歴史のなかに消耗されてゆくしかない階級として、示されているのであった。
「そうなのねえ。だから、動坂でいくら自動車を買って、どうかなった気でいたって、結局のところやっぱり、けちくさいんだわ。大戦で郵船会社が大儲けしたから、建築家だってあのビルディングを建てたんだもの――」
 そう云っているうちに、伸子は建築家である父が、しばしば娘の伸子に向って、依頼者の註文づけが不愉快だと話していたことを思い出した。方眼紙でできている父の手帖には、実際に建てる家やビルディングの設計図のほかに、それを考えているうちに浮んで来たいくつもの架空の設計図が描かれてあった。椅子にかけた泰造が、その膝のところにくっついて低い腰かけにいる伸子の手をとってなでながら、よく、想像(イマジネーション)を発揮しなさい。と、それを日本語でいうより英語でいうと一層そこにゆたかさが思われるようにいうのを思い出した。そういうとき伸子は、
「お父様のイマジネーションずき!」
と笑った。社会のしくみがいくらかわかって、建築家としておかれている父の立場が察しられてみれば、父のイマジネーションずきには、決して実現しない建築家としてのあこがれがひそめられているのを知った。それを思いやらず、無頓著にただ陽気そうに笑っていた若い女である自分の笑顔の上に、伸子は無智からくる厚かましさをみとめた。それは伸子に自分への反感をつよく感じさせた。
 食うための苦労をしたことがないということで、伸子は作品に関してまで悪口を
前へ 次へ
全101ページ中83ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング