ないで……ね、ほんとに」
「虎の巻があるのさ」
伸子とウメ子とは、思わず目を見合わせた。
「どこに?」
素子は、面白そうににやにや笑って返事しなかった。伸子が、瞳のなかに焦立たしさをひらめかせはじめたとき、素子は、
「そこさ!」
顎で、その座敷の隅にある自分のテーブルの方をしゃくった。
「ほんと?」
「うそをついたって、はじまりゃしない」
伸子は、すぐ立って机のところへ行ってみた。素子の訳したロシアの作家の書簡集の校正刷りがその机の上にのっていて、わきに赤インクのびんが栓をするのを忘られたままある。見まわしたところ、素子のいう虎の巻らしいものは見当らなかった。
「ないことよ、なんにも――」
「字引の下にあるだろう、カヴァーのかかったの」
重いロシア語字典の下に、四角っぽい形の厚い本がハトロン紙のカヴァーをかけてあった。
「これ?」
伸子は、手にとりあげた本を、むこうに坐っている素子の方にさしあげてみせた。
「そうさ」
立ったまま伸子は、その本をあけて見た。ブハーリン著、史的唯物論と印刷されている。これはしばしば新聞や雑誌の広告でみかけた題であった。同時に、伸子には意味のわからない題でもあった。伸子は、頁のところどころをあけてみながら、のろのろと、二人の坐っているところへ戻った。そして、ウメ子にその本をわたした。ウメ子は、落ちついて順序よく目次をよみ、いくらかの頁をめくった。ウメ子は、だまってそのハトロン紙でカヴァーをつけられた本を畳においた。その本の目次や、書かれている文章のところどころには、伸子がよみなれて来た本にない何か新鮮な、鋭いつっこんだ調子が感じられた。そこにある美しさが感じられた。伸子は手をのばしてウメ子のわきからまたその本をとりあげた。
「面白い?」
「おもしろい」
素子ははっきりうなずいた。
「ずるいなあ」
伸子はほんとにそう思って云った。
「いつ買ったのよ」
「二三日前さ」
二三日前と云えば、白い浴衣の男が不意に柘榴の樹かげから縁先にあらわれた日の、すぐあとのことである。素子は、また顎をなで上げるようにしながら、
「北條一雄の本ていうのも見ましたがね、どうもこっちの方がいいらしいから、こっちにした」
「ずるいなあ」
伸子はまたそう云った。
「わたしが、とじこもって、あれこれ考えてるまに……」
「いくらわたしだって、まさか、何一つしらないで行くわけにも行かないじゃないか、ぶこちゃんだって買えばいいのさ、どっさり積んであるよ、東京堂に」
ウメ子が、その言葉に注意をひかれていくらかためらいながら、
「――どっかへいらっしゃるんですか?」
ときいた。素子は、
「ああ、」
と、自分で自分の言葉に不意うちをくったように少しまごついた。
「まだはっきりきまったことじゃないんですがね――わたしもどうせ一生ロシア文学の翻訳で暮すんなら、思いきってひとつソヴェトへ行ってきたいと思って……」
「まあ!」
ウメ子は、まぶたの上にさっと艶を浮べて、
「いいこと! 是非いっていらっしゃい」
独特の謙遜な態度で賛成した。
「いらっしゃれたら、本当に結構ですわ、わたしまでなんだかうれしくなっちゃった」
なっちゃった、というところを、いかにも東京ッ子らしい歯切れのいい調子で早口に云って、ウメ子は、身幅のひろすぎる借着の浴衣の中で首をすくめた。
「――伸子さんもいらっしゃるんでしょう?」
「わたしは、お金がないの」
すると素子が、幾分からんだ口ぶりで、
「金だけの問題じゃないんですよ」
と云った。
「相かわらず手がこんでるんですよ……動機がまだ熟さないんだそうだ」
「だって――それはウメ子さんは、わかって下さると思うわ。あいまいで、行くようになってしまったりするの、惜しいんですもの。度々行けるところでもないんだもの」
動機ということを云えば、名も告げない白い浴衣のひとが来て云ったことで、伸子は、自分のわからなさの凝集作用ばかり見つめていたような状態から、つきとばされて、そとへころげ出たようなところがあった。わからなさのそとに、わかるべきことが存在していて、むしろ、そっちに意味がありそうに思えるようになって来ているのであった。
ウメ子は、その晩伸子たちの住んでいる郊外の家へ泊った。翌日のひる前、帰ろうとするウメ子に、素子が実際家らしい調子で念をおした。
「旅行の話ね、あれはまあいまのところ全く確定していないんですから、そのつもりで、たのみますね。いい恥っかきだからね、じたばたしてあげくの果に行けなかったなんてのは――」
「ええ。大丈夫です。誰にも云いませんから……」
玄関へ出ながら、ウメ子は濃い長い眉をあげるようにして、
「しかし、本当に実現なさるといいですね」
伸子をかえりみて、云った。
うすい灰色の
前へ
次へ
全101ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング