ということは、その経験があるだけに、かえって伸子を考えぶかくするのであった。
「あなたは、自分の専門だから、行く理由も目的もはっきりしているわ。でも、わたしの方は……ねえ、わかるでしょう?……それにね、いま、わたしの心に、こうなっているものがあるの」
伸子は、両手の指を胸のところで、もしゃくしゃと動かしてみせた。
「それがまとまると、きっとはっきりすると思うの、だから、もうすこし待って……」
「それゃ、待つも待たないもないけれど……」
相川良之介の死は、それを知った当座のおどろきや疑い、悲しさの激発が一応はしずまったあと、伸子のなかに深い余韻をのこした。その余韻は、細々としながらしかも消しがたく、丁度相川良之介が「蜘蛛の糸」という小説でかいた一本の細く光る蜘蛛の糸のように、伸子の日々を縫い貫いて、その日々に何かの作用を与えはじめていた。その蜘蛛の糸は、いまにも絶えそうに細いのに決して切れない強靱さをもっていて、南京玉を一粒一粒ととおしてゆく絹の糸のように、いつの間にか、伸子の心の中で、一つ一つばらばらにおこって伸子をつき動かした出来ごとと出来ごととの間をとおして、それはなんだか、そしてどうなるのだかは分らないながら、一つの輪になりかかっている気持であった。
この二三ヵ月のうちにおこったいろいろのこと、越智と母とのいきさつ、保の生活ぶりとそれにたいする自分のいつも心配な心持、どれも切実なようでいてそのはしばしは、みんな本質的には未解決のまま、伸子にとって手に負えない、現実のくらがりのうちに消えこんでいる。そのわからなさの上に大島のり子の優美に泣きくずれた姿があり、またあのよごれで光った三人の若い青年たちの顔々もある。
いつか動坂の客間の夕やみの中で保の心もちを飛躍させる力のない自分を不本意に苦しく発見したとおり、これまでの伸子の心ひとつでは、自分のわからなさとこんぐらかってしまうだけだったものを、一条の蜘蛛の糸が、細く、しかし決して切れないその光る粘りで、貫きまとめかけているように思えた。それはいろいろが、もっとわかって来た、というのではなかった。反対にいくつも、いくつものわからなさの間を、相川良之介がその時代に向って正直に示した、ボンヤリした不安という蜘蛛の糸が絡みまとめて、そろそろ、そろそろそのしぼりを締めつつあるような心持だった。わかったという方向から湧く力ではなく、ほんとにわからない! としぼりがちぢまり凝集することで、そこからなにかひとつふみ出す力が湧きそうな、痛みと歓喜との入り交った予感が伸子の心をうずかせているのであった。
伸子は、わかりにくいことをわかって貰おうとして、困り困り素子に自分のその心持を説明した。
「だからね、わたしは、これをすっかりみのらしてみたいの。わかる? 中絶したくないの。音楽のように、しまいまできいてみたいの」
「――まあ、それもいいだろうさ、わたしの方だって、なにもきょうあすにきまるわけじゃなし……」
素子は、そういう伸子の心にはあまりさわらないようにし、さわらないことではやく、伸子がいわゆるみのった状態におかれることを期待している風で、自分の旅行のための用事で外出しつづけた。巣についた牝鶏のように、伸子は家にこもりつづけた。
そういうある日の午後、縁側で竹の葉の色が青く映っている金魚の鉢を眺めていた伸子は、うしろで、
「こんにちは」
と、よびかけた男の声におどろいた。ふりかえるなり、伸子は、愛嬌のない眼をそちらにむけた。少女むきの文芸雑誌の記者で沼辺耕三という記者が、原稿をたのみに、といって先頃ちょいちょい訪ねて来た。沼辺耕三は、玄関をあけて入らず、柘榴の下枝をくぐって、いつもいきなり座敷の縁側のところへ姿をあらわした。はじめて来たときから、彼はそうした。
伸子は、そのとき座敷にいたこともあり、いなかったこともある。不機嫌になって座敷の真中の卓の、床の間よりの側に坐る伸子に、白服をきた沼辺耕三ははなれた縁側から、話しかけた。
「きょうは吉見さんは――お留守ですか?」
そして、奥をのぞくようにした。伸子のこころに、留守ならばどうだというのだろう、と思わせるいいかたできいた。いくら伸子がことわっても、何か書けと求めた。そのおしのつよさは、伸子に自然なものとしてうけとれず、俗に男はおし、という、そういう意味でのおしの感じに通じていて、沼辺耕三を嫌悪した。
その男が、きょうは浴衣がけで来た、と思って、伸子はいそいで縁側から立って奥へ入ろうとした。すると、庭へ入りかけていた白い浴衣の人は、伸子のおどろいたのがわかったと見え、
「や、失敬しました」
といった。
「――玄関へまわった方がいいですか」
眼を定めてみれば、それは、沼辺耕三とはまるで別の人であった。ただ、三十をすこし出
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