かった。忘れたころになって伸子は、ひとりごとのようにいった。
「相川良之介というひとが、芸術家だったことだけはたしかだわ……ああいう風に友達からおくられることができるんですもの……」
伸子の記憶のなかに、軽井沢で死んだ武島裕吉の葬儀の日の光景がよみがえった。式は、麹町辺にあったそのひとの大きい邸宅で行われた。鯨幕をはりめぐらした玄関から、故人の柩の前まで、更にそこから出口まで、白布がしきつめられ、柩の横に、礼装の親族が立ち並んでいた。そこには、幼い二人の遺児もつらなっていた。静かに動いている弔問者の列に加わって歩きながら、伸子は、作家武島裕吉をじかに感じられなかった。重大な儀式がとり行われるような場合にことに際だってあらわれるその家の格式のきびしさが、万端にみなぎっていた。それは、古風であるとともに世俗的であり、そういう雰囲気のうちで、葬送される武島裕吉の感傷的に柔かい相貌が映されている棺前の写真を眺め、焼香するとき、伸子はつい涙をこぼした。武島裕吉が生きつづけられなくなった生活環境の矛盾そのものが、上流人らしい老若の顔々となり、威儀を正した喪装のそよぎとなってそこに立ち並んでいた。――
多計代は、また自分を抑えられないように、その作品で知っている作家たちの名をあげた。その人々も来ていたか、ときいた。
「ねえ、お母様、全体がまるでちがうのよ。普通立派なお葬式とか何とかいう、そういうのとは、ちがうのよ。ね、だから、もうきかないでさ」
「それゃ、もちろんそうなはずですよ」
そして、
「本当に、相川良之介というひとは、独特だった……覚えているだろう、伸ちゃん。あのひとがうちへ来たとき……」
世間並の礼儀は一応まもらなければならないが、しんからの話相手とは出来ず、いくらか手もちぶさたなような、退屈なようなとき、相川良之介は、両方の手を、蠅があしをすり合わせるような工合にして、もて扱う癖があるらしかった。彼や久留雅雄が同人雑誌に作品を発表したばかりの頃、本をかりるために相川良之介が動坂の家へよったことがあった。そのときのことを多計代はいうのであった。伸子は、そのとき、どんなに相川良之介が、その手もちぶさたらしい手つきをしたか、はっきり覚えている。
伸子は、きょう、ここへよったことは間違っていた、と思った。伸子は悲しそうに黙っていたが、やがて、
「わたし、すこしねて来ていい?」
ときいた。
「あんまりくたびれたから……」
多計代は、すこしびっくりして、
「さあ、さあ、おねなさいとも。――でも大丈夫なのかい、ただねるだけで」
「いいの、いいの」
青桐の葉ごしの光線でその座敷にしかれた蒲団のシーツの白さが緑に光るようなところで、伸子は、団扇を顔の上において、本当にすこし眠った。
となりの室で多計代が何かいっている声で伸子は、目をさました。
「なるたけもって行くまいよ、ね、きりがありゃしないもの」
つや子の学校も夏休みになり、近日中に、東北の田舎の家へ出かける、その仕度であった。
伸子は、真夏のひるねからさめた新鮮な顔つきでそこへ出て行った。
「いつお立ち?」
「四五日うちには立たなくちゃなるまい」
「ことしは誰が行くの」
「さあ……ともかくわたしは出かけるよ、またあせも[#「あせも」に傍点]がこわいから」
多計代は糖尿病をもっていた。あせも[#「あせも」に傍点]がよって、悪化して、大変苦しんだことがあった。それから、夏の間は東京にいないことになっているのだった。
「お父様はだめ?」
「それゃ、一寸はおいでになるだろうけれどね、例のとおり忙しいから――保さんは来るよ」
そういえば、伸子が来たときから保が見えなかった。
「保さん、うち?」
「ああ」
満足そうに多計代は、
「あのひとは相変らずさ、よく勉強している……この節は毎朝六時すぎに出かけて、ドイツ語に通っているよ」
フランス語の文丙にいる保がドイツ語をはじめた、ということは一応高等学校の上級生らしいことであった。けれども伸子は、ドイツ語ときくと、そこに越智を連想され、ひいて、保の日頃から思弁ぐせにつらなって考え、単純にきけなかった。保は、このごろも越智のところに出入しているのだろうか。
伸子は、うちにいるという保に会うつもりで、いつもの二階の北側の小部屋へ行ってみた。鴨居にはられているメディテーションという貼紙のはしが暑気に乾き上って少しめくれかかっている。机のよこの障子は、はずされていて、内庭の八つ手の梢の上に高くそびえているタンクでモーターが鳴り、風呂水をくみ上げている。保はそこにいなかった。保がいないで開放されている書斎を見まわして、伸子は、そこにあるどの本棚も、例によって教科書ばっかりなのに、いまさら不思議な気がした。この前、ここで保としゃべったりした
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