であった。
 伸子は、自分の生活にあらわれるそんな様々のわからなさ、自分流のボンヤリした不安が、ほかのひとのところにはないのだ、と思うことは不可能だった。文壇の沈滞ということが、この二三年いわれつづけて来ている。「秋刀魚」の詩で有名な詩人は作家の経済事情が文学を沈滞させると、原稿料問題を新聞にかいた。それに反対して、原稿料の問題だけが文壇と文士を沈滞させているのではない。文士が余り常識的で平穏な日常生活に腰をおろしすぎてしまったからだ。人生への冒険の気魄を失ったからだ。そこを考え直さなければならないと、小坂村夫が書いた。それはつい先頃のことであった。しかし、そういう小坂村夫自身は、彼自身の人生と文学とを冒険させる機会を発見することに熱心であるとも見えなかった。無産階級文学の理論にたいしても昔ながらの芸術性をいって、相川良之介のように条理にたって、玉は砕けるが、砕けない瓦、文学の母胎としての民衆を信じるとはいわなかった。相川良之介が、東京の炎暑の夜を徹して涎をたらしつつ、手をふるわせつつ、透明になった神経の力を奮いあつめて最後の幾行かをかいているとき、小坂村夫は、日光かどこかの涼しい湖でマス釣りをしていた。「マス釣り」という随筆が、相川良之介の葬儀と前後した日の新聞に出た。盛夏になればマス釣りもなどと、それは小さな安定におさまった人間の最も常識的遊楽の一つではないか。どこに人生の冒険の気魄があろう。伸子はそのひとの書くりきみ[#「りきみ」に傍点]と、現実の生きかたのなまぬるさとの間に激しい軽蔑を感じた。その矛盾は、相川良之介の死によって見直される気配もなかった。文学が沈滞している。それは、人間らしさの沈滞と別なことであり得るだろうか。そう思うと、伸子には、この沈滞を貫いて、命がけの抵抗をつづけた相川良之介という一条の光道に、深い深い意味を感じるのであった。だのに――相川良之介! 相川良之介! 伸子は無限の哀感としりぞけることの出来ない否定の絹糸にしばりあげられて、汗にとけこむ涙を流した。彼の悲劇は、命がけであることさえ文学的[#「文学的」に傍点]至芸と崇拝されなければならないところにあった。
 相川良之介の葬儀は、七月二十七日谷中の斎場で行われるという通知が伸子のところへも来た。情のこもった悲しみが式場のぐるりにみなぎっていて、いつもはいろいろの会場で一つにかたまっている姿を美しいとは見られない文学関係の婦人たちが、きょうはいちように喪服で、しとやかに群れ立っているのも情景にふさわしかった。伸子は、式場では決して泣くまいとかたく心にきめて家を出た。柩は、生きていたときの相川良之介のある美しい気分や趣味をしのばせるようにすき間なく純白の花々につつまれ、あまたの蝋燭のきらめきに飾られていた。紋服白足袋姿の「湯島詣」の作者が先輩総代として、硯友社調の弔詞を朗読した。短躯の久地浩が友人総代の弔詞をよみはじめたが、彼は、せき上げる涙に耐えず、友よ! 安らかに眠れ! というくだりは辛うじて会衆にききとれるばかりであった。さざなみのひろがるようにむせびなきがおこった。
「君去りて、我らが身辺とみに蕭々《しょうしょう》たるをいかんせん」
 泣くまいとする伸子の唇が、はげしくふるえた。久地浩の哀傷は丸く短いその全身からほとばしり、ひとり去った旧友相川良之介に向って、彼によってあらわされていた彼等同時代人の芸術性もともに終焉したことをかなしみ訴えるようだった。そのようなまじりけない悲傷を語っている久地浩は、最近の数年来大衆作家となり、出版社をおこし、企業家として成功しつつあった。腕に喪章をまき、日ごろのあからがおも蒼ざめて見える久留雅雄は、やはり通俗作家となって、昨今文壇に流行をきわめている麻雀のもとじめとゴシップされていた。
 生きつづける友人たちの生の営みは様々であるが、相川良之介をかなしむ思いではひとつにながれていて、伸子は、白い花ときらめく蝋燭の灯にちりばめられた式場に声ない哀悼の合唱を感じた。生きるために生きることを拒絶しない人々は、それを拒絶して翔び去った友人の最後のかどでを、真情の手に舁《か》いで送っている。伸子は、黒と白と金色の悲しく美しい「オルドス伯の埋葬」というグレコの絵を思いおこした。
 こらえていて涙が汗にかわって全身からにじみでたあとのようにぐったりして、伸子は谷中の式場から動坂のうちへまわった。
「大層な疲れようだこと」
 かり着の浴衣にくつろいでも、口がきけないようにして冷たいものばかりのんでいる伸子をよこから眺めながら、多計代がいった。そして、つつみきれない好奇心で、遠慮がちに、
「――お葬式、どうだったい?」
ときいた。伸子は、すぐ答えられなかった。そういう風にきいたり、話したりするにふさわしい感情が伸子のなかにな
前へ 次へ
全101ページ中69ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング