かっている。それは好人物の印象であった。
二階の書斎兼客間に通された伸子はそこにある一つ一つのものに興味を動かされた。その部屋の一隅に大きい茶色の書きもの机が置いてあった。その机は、伸子が本の插画の古い銅版画で見ているプーシュキンの書斎にあった机のような型で、グリグリのついた足と、いくつもの小引出しとをもって、いかにもロシアの古机であった。壁に、海洋を描いた画家として有名であったアイバゾフスキーの嵐の夜の海の写真版がかかっている。反対のもっと光線のすくない方の壁に、この間うち開かれていた現代ロシア美術展のとき売っていた赤いサラファンを着た太った若い女の絵の色刷りがはってある。それがロシアの復活祭のとき飾る色つけ玉子を真似したおもちゃだという、こまかい朱うるしで絵をかいた玉子形の飾りが本箱の上にあるのを見て、伸子は、
「持って拝見してもいいかしら」
そっととりあげて眺めた。日本のうるしの細工とまるでちがう手法で、赤い玉子のおなかにまた楕円形の灰色の地があって、そこに橇遊びをしている冬の湖上の風景がミニェチュア風に描かれている。
「だから来てよかったじゃないか、ぶこちゃん」
素子が本棚のところに立っている伸子をからかって、小川豊助にいった。
「なかなかひっこみじあんで、きょうもはじめは、わたし一人で上れっていっていたんですよ」
「本当によく来て下さいました。屑のようなものだけれど、こうして日本でみるとなつかしいもんですな。――ハルビンにいたときの記念品みたいなわけで……」
さっきの若い女のひとが、お茶を運んで来た。細君の妹ということだった。やがて、
「どうも、失礼いたしました。つい、手まわしが下手だもんで……」
そういいながら、あっさりと木綿の白地の単衣を着た細君が買物から戻って来た。その細君をみて、伸子は、妹という若い女との対照をつよく感じた。細君は小柄なひとであった。しまった浅黒いからだで、小じんまりした顔の造作のなかに、二つの眼がからだの小ささに似あわしくないつよい光をもっていた。愛嬌がよくて、声を立てて笑うのに、その二つのつよく光ってる眼の中は笑わなかった。伸子は、その笑わない眼が無視できなかった。自分だけは、姉とちがって薄紫の銘仙の単衣を着て、人絹であるけれど華やかなアマリリスの花のついた帯をしめ、大柄なからだのぼってりとしたしなやかな重さを一つ一つの動作につれて自分でもたのしんでいるような妹というひとのどこかゆるんだとりなしは、つつましくまめな主婦の気分で統一され、それを意識している姉とひどくちがった。一つ家の中で、小川豊助を中心にして、姉と妹とが、女としてそういう対照的な存在となって生活しているように感じられ、それは、素子が関西の生家を出て暮している理由にも似ていた。素子を生んだ母は、色の浅黒い、地味で実直な町家の主婦であった。あとの弟妹たちを生んだひとは、姉と反対の色白で、ぽっちゃりしていて、音曲《おんぎょく》の上手なひとである。
素子は、早速買って来たタバコの箱をあけてすいながら、古い友達の調子で、小川豊助とあれこれと仕事上の話をしていた。
「あなたにしちゃ珍しいもの訳したんですね」
「ああ。あのレーニンですか」
小川豊助は、すこし顔をあからめて、はげている頭をなでた。
「是非ってたのまれましてね。柄にないもんだがやってみたんです。やってみると、面白いですね、文学の下らないものよりよっぽどためになったし、面白かった」
「でも、あの題、何だか文学くさいじゃありませんか」
伸子も同感で、ほほえんだ。二三日前の新聞に彼が訳したレーニンの本の広告があって、その題が「一歩は前へ、二歩は後へ」とあった。伸子はおかしがって、
「どっちへゆくんだかわからないみたいだわ」
と笑った。素子も、
「オブローモフだ、これじゃ」
と笑った。そのことをいっているのであった。
夕飯の食卓に、それもハルビン時代のものだというウォツカ用の切子《きりこ》の瓶が出た。それには葡萄酒が入れられていた。白い卓布をかけた卓に、小さいコップが並べられて、台所と茶の間の往復は、水色のエプロンをかけた細君がした。妹のひとが、小川と素子の間に坐って、とりもち役にまわった。
葡萄酒ですこし赤らんだ素子が、
「あんなに姉さんにばかり働かしといて、いいんですか」
とじょうだんのようにいった。するとしめた障子のむこう側から、
「いえ、いえ。こっちは一人で十分なんでございますから……どうぞ御心配なく――」
下を向いた手もとでは細かく何かしているらしい声で細君が答えた。
「わたしは、なにも出来ないもんですから……」
妹のひとは、そういって声を立てずに笑った。そして、ちらりと小川豊助を見あげた。小川豊助は、素子からもらったタバコに火をつけて、それを右手の
前へ
次へ
全101ページ中59ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング