与えた越智をゆるすことが出来なかった。越智が多計代にたいしてとっている態度はなんだろう。ああいういきさつは、保の純粋をけがさず、周囲のすべての関係の純粋をみださないことだとでもいうのだろうか。伸子は、保の肩をつかむように、
「あんな人にかれこれいわれて、それがなにかだなんかと思ってたら、それこそとんでもありゃしない。――あんな……」
 偽善的なといいかけたその先は言葉が出なくて、伸子はただくい入るように保の眼をみつめた。伸子のそういう激しい言葉づかいにたいしても、保はあらわな反撥も、好奇心も示さず、じっと平静にきいている。伸子の性質にとって、それはもどかしく苦しかった。保は、いつも素直にきいている。でも決して自分というものをあい手に向って解放しない。伸子のいうことも一つ一つと、不思議な粘りづよさで漉して、きいている。むしろ心を動かされることを警戒してきいている。伸子は、そういう保に向って自分の心が溢れるとき、まるでせまい壜の口から一滴ずつ油でも流しこんでいるときのような息苦しさを感じるのであった。
「ね、保さん」
 紺絣の太った膝に手をおくように伸子はいった。
「いいことっていったって、そんなに永劫不変な型に入った絶対のものがあり得る? 生活は絶えず動いているのに……あとからあとから新しい条件が出来て来るのに――。いいことっていったって、それは、わるいとわかっていることを否定したり、それをなくしようとして闘ってゆく、そこに生れるんじゃない? いつだって、そうだわ、実際は。……」
 自分がそういったことで、伸子自身にも一層現実がはっきりした。本当に! いつだってそうだ。いいことは、わるいこととのたたかいの間につくられて来るのだ。
「まちがった力をどけなけれゃいいことはあり得ないとしたら、なんで正しさを防衛するの? 右の頬っぺたをぶたれたら、左の頬っぺたまで出す? わたしはいやよ。保さんは?」
「そういう場合なら、僕だって出さないと思う」
「でしょう? だもの……」
 しかし、保は内心で、そうでない場合もある、とがんこに考えているのだ。それが伸子によくわかった。
 こうして何かいっていればいるほど、保の不思議に抽象してものを考える癖につきあっているようで、伸子はますます落着けなくなった。伸子がその考えかたを否定していうにしろ、つまりはそれも抽象的な話であることはおなじなのだから。――もっときついシュッ! と泡の立つような話。保がどうしてもむき出しに自分の感情の底をわらずにはいられなくなるような、そういう人生の話。伸子はそれを求めた。保の人間性の根っこをつかまえて、その上皮にはりめぐらされたあいまいなものをひといきに破ってしまう、そういうものこそ保に必要なのだ。
 なにが、そういう種類のことがらだろう。伸子は、自分たちの生活のぐるりからそれを見出そうとするしかなかった。越智と母との普通でない交渉。それについて保と自分とでしゃべる勇気は伸子になかった。それならば、きょうのように、美しい小枝を中心に兄が見せた一種の雰囲気を、弟であり、女の子の友達のない保がどう思ってみたか。伸子にはいうまでもなく保の微妙な心もちが映っていた。和一郎が保と正反対の飄然さをつよくあらわしはじめて、余りうちで暮さないようになったのは、弟である保から感じる圧迫感の反射だということを、保が知ったとして、保がどうなろう。――
 客間のなかはすっかり薄暗くなった。青葉はずれの鈍い光が、四角い紫檀の卓の一角と、白い支那焼の灰皿のふちを細く光らせているばかりで、奥の椅子にふかくかけている保の顔は、伸子のところからほとんど見わけられなくなった。窓ぎわにいる伸子は、逆光でぼんやりシルエットを浮き上らしたまま、二人の姉弟は灯をつけないその部屋にかけていた。保をむき出しにしてやるちからが自分にないということを伸子は自分に承認しかねる撞着を感じながら……。

        十六

 多計代は前崎の家に二十日ばかり逗留した。六月も二三日で終るというころ、伸子は多計代からのよみにくい草書の速達をうけとった。例の好物がなくならないうちに、と書かれている。前崎へゆくと、いつも国府津でかまぼこを買って来るのだった。
 伸子は、茶の間でそのハガキを見ながら、
「かまぼこもらって来ようかな」
といった。
「あすこのかまぼこ、うまいにはうまいが、義太夫でいえば呂昇といったところだね」
 そして、素子はその趣向を批評するように、
「いかにも動坂の人たちの気に入りそうな味さ」
といった。全く動坂の家の空気には、渋いところや、粋なところ、そういう味はなかった。多計代の着物や帯のこのみも大味で、縞でも多計代は大名縞を、娘の伸子の方がこまかい吹きよせの縞をきるという風なちがいがあった。
 動坂の家へ行って
前へ 次へ
全101ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング