にあった倦怠や憎悪さえひっくるめて一つの忘れがたいものとして迫った。それを思い出とよぶにはまだあんまり近すぎ、しかも、もうはっきり自分たちの生活する場所ではなくなったものとして、今朝まで住んでいた家に最後の戸じまりをして去るこころもちは、深く伸子をうごかした。
伸子たちが戸じまりをしている間に素子が近所別れのあいさつにまわっていた。それをすまして帰って来るのを葉の黄色い秋のポプラの樹の下で待ち合わし、やがて、三人はそれぞれにかさばった風呂敷をもって、郊外電車の停留場へ出た。とよ[#「とよ」に傍点]が乗る電車と伸子たちの渋谷行方面とは反対で、とよ[#「とよ」に傍点]の乗る方がさきへ来た。とよ[#「とよ」に傍点]は、あいている座席に風呂敷包をおくと、線路ごしに伸子たちの立っている方へ向いて立ち、しまった窓ガラスごしに幾度も腰をかがめた。電車が動き出し、丁度また腰をこごめかけていたとよ[#「とよ」に傍点]の七三の前髪がよろけて窓ガラスにぶつかった。
伸子と素子とは渋谷からタクシーをひろった。数日来うちつづいたいそがしさに疲れて、伸子はいくらか胃がこわばり痛みそうだった。タクシーの座席のクッションに頭をもたせかけるようにして、はしりすぎる街の風景を見ていた。素子もひどくくたびれて、同じようにうしろへ頭をもたせかけ、目をつぶってタバコをすっている。
青山の大通りをはしっていたタクシーは前をゆく電車と、板を積んだ荷馬車とに行手をさえぎられて、不機嫌そうにスピードをおとし、徐行しはじめた。伸子のかけている側の窓からは、すぐそばに歩道が見え、そこに、ちらりと、うなぎ屋の紺ののれんが目に入った。そののれんに橋本と白く染めだされている。クッションにもたせかけた頭の位置はそのまま、伸子はじっと刺すようにそののれんに視線をすえた。このうなぎ屋を伸子は知っている。よく知っている。佃の妻であったころ、急にお客へ食事を出さなければならないとき、伸子は台所口から前かけ姿のまま出て行ってはこのうなぎ屋へ中串やどんぶりを註文に来た。佃の家のある裏の通りから、ここへ出る角は時計屋で――昔のとおりの順序で、伸子の乗っているタクシーの窓に、二人の天使が舞いながら、時計盤を吊りあげている青銅の飾《かざり》時計がおいてある時計屋のショウ・ウィンドウがあらわれて来た。この時計屋から佃の家までは、裏をまわって
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