わたくし、ロシア語はできません」
「しかし、サッサさんは英語話しますから不便ないでしょう」
素子が、いそいで、とりなすようにいった。
「そう、ソヴェトでもこの頃は英語がはやっていますからね」
パルヴィン博士は素子に、ロシア語をどこで勉強したかということや、誰が教授だったかときいた。そこへ、物かげになっているドアのところから、洋装した一人の日本婦人が出て来た。非常に小柄で、やせて、小骨の多い小鳥のようなからだつきだった。パルヴィン博士が、
「わたしの奥さんです」
と紹介した。
「どうぞよろしく」
夫人は、スカートの前に両手をそろえて、ごく日本風のお辞儀をした。毎日あらゆる種類の人々を応待し、観察し、それを仕事として暮している婦人らしい笑顔と身ぶりで、夫人は博士のわきにかけた。この夫婦がならんでかけた光景は現実ばなれがしていた。灰色の大きい眼玉が黄色っぽく溶けかけている巨人のような外国人の主人。やせて、小さくて、軽くて、油断のない鶸《ひわ》のような日本人の細君。背景をなす部屋のつくりが、がっしりとして宏大なために、夫婦の対照はひとしお目にたった。
パルヴィン博士は、
「ヴィザ、じきおりるでしょう」
そういいながらなぜかちょっと、傍の小さい夫人の方をみた。夫人は、にこやかな表情のまま、大きい良人の方は見ないでうなずいた。
「一週間もたったら出来るでしょう。そう思います。そのときおいで下さい」
博士の住んでいる茶色の別館を出た伸子と素子とは、互にひとことも口をきかず、ゆっくり大使館の門外へ出た。ろくな街路樹もない歩道をしばらく歩いて一軒の文房具屋の前へ来たとき、
「ぶこちゃん、ちょっとまってくれ」
素子が立ちどまって、たてしぼの単衣羽織をきた袂からタバコ入れを出した。
「ともかく一服しなくちゃ!」
あんまりそれは実感に迫ったいいかただった。
「まったくね! あなたは、こういうとき、そういうものがあるから本当にいいわ」
そういいながら、伸子は商店の並んだその街上を見まわした。
「でも、歩きながらじゃ変だから……」
正午近い電車どおりのむこう側で、坂の下りかかりに色のあせた藍縞の日よけを出した一軒の喫茶店があった。
「あすこへ行きましょう、どんなとこでもいいわ。かけられさえしたら――」
素子は、まちきれないように、白ペンキをぬったその喫茶店のドアの内へ入る
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