たように、涙で濡れたハンカチーフを握ったまま、なおそこにたたずんでいる。じっとしていられなくなって、我知らずそこまで動いて来たという風だった。
「あっちへ行きましょうか。立っているとくたびれることよ」
「ええ」
のり子は、ななめ下の畳を見つめながら機械的に返事したが、動こうとしなかった。伸子がひとあし進もうとしたとき、その胸にのり子がぶつかるように身を投げかけてきた。
「ねえ、あのかたのことをわるくお思いにならないで!」
低いけれども、絶叫のようにのり子はそういった。
「どうか、あのかたのことをわるくお思いにならないで頂戴!」
そして、伸子の胸から、伸子よりもすらりと高い自分の上半身をすべらせて、傍らのベッドの上へ泣き伏した。
夏の夜なかの豪雨を蚊帳のなかで聴きながら、伸子は昼間のその情景をこまごまと思いかえした。女ひとりの寝ている家の屋根瓦をうち、その庭に生い茂った夏草の根を洗って流れる雨の音と稲妻の間を縫って、あのかたをわるくお思いにならないで! といったのり子の、訴えにみちた叫びが、またきこえるようだった。あのかたをわるく思わないで。――しかし、ベッドの上に泣き伏したのり子の綺麗な友禅の絽のおたいこは、なんとせつなく波うちもだえていただろう。
伸子の心は、いうにいえない哀憐と、人間生活へのわけのわからなさで、しめあげられた。瘠せた顎に汗とともにかわいたほこりのしみをつけたきたない遠藤絢子は、ギラギラした眼でもって、幽鬼じみた接吻のことを告げた。相川良之介さんは私に接吻したんです、と。そこにも人間性のぴくぴくする断片とその痙攣とがある。けれども、なんとあれこれは互に齟齬しており、くだらなさと痛切さとがまじりあっていて、窮極の意味はわからないのだろう。豪雨の夜の天地の暗さと、人間の生きかたの奇妙なくらさとは、ひろい座敷に虫籠のようにつられている白い蚊帳を、パッと瞬間ひらめき照らす稲妻が消えるごとに、いよいよ濃くなりまさって、伸子の心とからだとをおしくるむようだった。
二十二
素子が京都から帰って来た。
東京をはなれたのは僅かの十日たらずであるけれども、その間ひどくちがった生活の中にいてきた人の眼つきで、素子はうちのなかを見まわした。
「――どうした? 相川良之介の葬式には出かけた?」
「ええ。行った」
伸子は、不自然でないように
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