母の|情熱の子《パッショネート・チャイルド》であるという意識の方がさきに映っているのではないだろうか。保は、どういうことになるのだろう。伸子はどうしてもそれが気になった。堂々と、自分の問題はわりきれたことに誇りをとりもどしている多計代の様子は、忘られ二の次にされている保への残酷に似たものとして伸子に感じられた。
十七
そのころになって、素子の翻訳の仕事がほとんど完成した。前の年の初夏に着手されたものであったから、一年ぶりで出来あがった。素子としてはじめての大きい仕事であったし、文学史の上でも、ロシアの近代古典作家の生活の鏡として、特にモスクワ芸術座のはじまりごろの文献として、価値も興味もふかい書簡集であった。
出版|書肆《しょし》はきまっていなかった。けれども、一仕事終った素子ははればれとした顔つきで、赤くすきとおったパイプをくわえながら、厚く綴じこまれた原稿がいくつも重ねてのせられている机のまわりをまわって歩いた。そして、ふっと何か思いつき、頁をめくり、それなり腰をおろして一つ二つ字句を直したり、縁側の方に立って逆に机の上の辞書をひらいたりした。それは、いかにもたのしそうな様子であった。
伸子はわざと自分の机のところから動かず、
「胃弱はいかが?」
と、そういうたのしそうな素子にきいた。
「いかにも悪そうな顔色だことよ」
「意地わるいうもんじゃないよ、ぶこちゃん」
そして、ちょいと歯の間から舌のさきを出して、
「ほんとに。――直っちゃってる!」
首をすくめながら小声で眉根をあげていった。
「だから本当でしょう? いるのは薬じゃなかったのよ」
「いちごんもないね」
伸子がはじめて会ったころ、素子は不眠だといって、アダリンをのんだり、胃弱だといって散薬をのんだり、昼間でもなまあくびばかりしていた。小麦色の肌もさえなかった。伸子は睡眠薬の必要を知らなかったし、一人暮しをしている女がそういう薬を常用したりすることが気にそまなかった。伸子は、いくら素子が眠れなくても、おしゃべりや読書につきあう代り睡眠薬はやめにした。胃弱用の薬というのも、きれたときを機会にやめた。それからしばらくして、素子はこんど出来上った翻訳にとりかかって、昼間のなまあくびを消滅したのであった。
伸子のところから、関西風に袖の短い銘仙絣をきて、頸根っこに重くまるめた髪をこ
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