、内玄関を上りながら、やっぱり母が帰っている生活はちがうと、伸子はおどろいた。どこがどうともいえないしまりが家の空気についていて、留守中来たときの、あの吹きぬけの感じはなくなっている。家じゅうに、近ごろずっと無かった落着きがある。それは、多計代が前崎から帰って来て、割合うちに落ちついている気分を映している。伸子はうれしい気持で、食堂へ顔を出した。大テーブルの正面の多計代の場所はからで、紫しぼりの座蒲団だけがあった。
 伸子は、
「こんにちはア」
と、大きい声で叫びながら廊下を奥の方へ行ってみた。
「おかあさま、どオこ?」
「来たのかい?――こっちだよ」
 階段下の小座敷から多計代のへんじがきこえた。三尺の茶室風の襖の奥に四畳半がかくれ部屋のようについていて、そこに多計代の箪笥や鏡台がおいてあった。家じゅうでたった一つの炬燵の炉も切ってあった。
「いいの?」
「ああ」
 唐紙をあけると、鏡台の前に坐って、髪を結い終ったばかりの多計代が背中に白いきれをかけたなり、櫛をふいていた。前髪のふくらましのしんに入れる毛たぼを揃える新聞紙がわきにひろがっている。ひとりでゆっくり髪を結った女の気分が小座敷にみちている。それは、伸子に非常に珍しかった。
「坐っていい?」
「ああ」
 多計代は、ひろがっている新聞紙をたたんで鏡台のわきに伸子の坐るところをつくった。
「おはがきありがとう。かまぼこ、まだ大丈夫?」
「伸ちゃんの分は一本別にとってあるよ」
「そうお、ありがとう」
 多計代は、いくらか目立ちはじめた白い髪を、黒いチックで塗り、かくしていた。そういう髪を結ったばかりの多計代の指には、ところどころ黒チックのよごれがついていた。耳にも掠ったような黒さが見える。伸子は、そこにあったちり紙で、母の耳の上についている黒いチックのあとを拭いてやった。
「前崎、よかったでしょう? この間、ちょっと事務所でお父様にお会いしたとき、随分よさそうにいっていらした」
「こないだうち、毎晩、なにをとっていたのか沖にずらりっと漁火《いさりび》が見えてね、ほんとにあの景色はきれいだった」
 伸子は、複雑な意味をこめ、
「行ってよかった?」
ときいた。多計代は、それをごくあたりまえにうけて、
「例によって三四日眠れなかったけれど……いまあっちはいいよ。ああそういえば、伸ちゃん製材所のあったの知っているだろう
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