母様の気もちだけで行動しないで、ね。わたしは、佃と結婚するとき、本当に佃だってわたしと同じように人生にたいしていろいろの希望をもっているんだと思いこんだんだわ。ただそれがわたしに向っていえないだけだと思ったのよ。それがかわいそうと思ったのよ。でも、それは間違っていたんですもの。……」
 多計代は、深い吐息をついた。そして思い沈んだ表情ながら落ちついて、
「ほんとに私もよく考えよう……ありがとうよ」
 そういいながら、とられていた伸子の手の中から自分の手をしずかにひっこめた。

        十三

 何という奇妙なこころもちだろう。
 朝から素子は牛込の本屋へ出かけて、森閑としている駒沢の家の庭には、きらめく初夏の日光が溢れた。柘榴のこまかい葉の繁みは真新しい油絵具の濃い緑のように濃く、生垣越しのポプラの若木の梢は軽いやわらかな灰緑色に、三角形の葉をそよがせている。目のとどくいたるところに伸子の愛好する爽やかな新緑の濃淡がかがやいていた。それは、花の季節よりゆたかに自然の美しさを感じさせる。伸子は机の前から、そういう庭の景色を眺めていた。そこには日一日と緑の諧調を変化させているまばゆい初夏の庭がある。伸子の眼はそのまばゆい緑をじっと眺め、まばゆさのために瞳孔を細くちぢめているほどだ。だのに、伸子が外景からうける感じは変に黒かった。樹々の緑色が黒とまじり合って濁って感じられるのではなく、まばゆい純粋な新緑の美しさはそのままくっきり目に映っており、それが伸子の心に来る途中に、しまったシャッタアのように強情な黒さがあるのであった。
 喪にいる、という言葉を、伸子は思い出した。喪の黒さとは、こういうものかと思った。しかし、伸子は悲しんでいるのではなかった。一つも悲傷はなかった。ただ奇妙な、不自然な、信じることの出来ない混乱が充満している。誰からも話しかけられず、考えの内側に好奇心をもたれず、きょう一人でいられることが伸子にうれしかった。
 きのう、動坂の家で多計代が越智と結婚しようと思うといい出したとき、伸子は全力をつくしてその不可解なことを、わかろうと努力した。自分としては必死にわかろうと努力しながら、多計代に対しては、最大の慎重さをもとめた。本能的にそうせずにいられなかったほど、越智と母との結婚という観念は伸子にうけとりがたかった。
 思えば、不思議でもある。ああやっ
前へ 次へ
全201ページ中78ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング