をいった。
伸子の気持には、早川閑次郎の話しかたにたいして、激しい反駁がうずまいていて、もし万一、指名されたら、この気持をどう話したらいいのだろうかと、不安だった。
三年ばかり前、大戦後のヨーロッパで有名であったアンリ・バルビュスの小説「クラルテ」が翻訳されたとき、その出版記念会があって、伸子も招かれた。その夜、フランス文学者である松江喬吉がテーブル・スピーチをした。翻訳という仕事は女性にふさわしい仕事だから、日本にもこれから優秀な婦人の翻訳家が出ることを希望する、という趣旨であった。そこに伸子の名もふれられた。司会者が、伸子に、それに答えるテーブル・スピーチをもとめた。なに心なく帯どめから白いナプキンをひろげたまま松江喬吉の話をきいていた伸子は狼狽した。話をききながら伸子は、自分は翻訳は出来ないし、したくない、そうはっきり思っていたのだった。生れてはじめてテーブル・スピーチに立たされた伸子は、上気して、人々の顔の見わけもつかなくなり、会場一面が明るくきらつき、花の色が赤や桃色に流れて目に映るばかりであった。伸子はやっと、小さい声でいった。翻訳はたしかに女性むきの仕事だともいえるけれども、女として、ひとのした仕事を、別の国の言葉に移すだけが、一番ふさわしい能力だときめられることは悲しいと思う。翻訳を立派にする人も出なければならないが、自分の仕事をする婦人も、もっともっと出なければならないと思う、と。もっと大きな声で願います、といわれながらやっとそれだけいったときの、のぼせたせつなさを思って、今も、伸子は腋《わき》の下がしっとりとするのであった。
いいあんばいに司会者は、伸子を指名しなかった。日本側の婦人客が話し出してから、中国女学生たちは、礼儀上しずかになって、その話をきいた。が、一座には、親睦の雰囲気は最後までかもし出されなかった。伸子が不服をもったこころを胸にたたんでいるとおり、中国女学生たちの顔々には、なんのための会だったのかといぶかしがり、不満がっている表情がありありと浮んでいた。挨拶が終ると、またすぐ中国女学生たちは仲間で話し出し、それは批判的な内容であることが、言葉のニュアンスや顔つきで、伸子にも感じられた。一九二七年というその年の二月末には上海の大ストライキがあった。その結果臨時革命委員会というものができて上海市の政治が中国労働者によって行われは
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