二つの型
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)側《かたわ》ら

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ついぞ[#「ついぞ」に傍点]発見し得ない。
−−

 服装に就いての趣味と云っても、私は着物の通人ではないから、あれがいいとか、こんな色合は悪いとかは云えない。要するに着ているそのひとに合っていればいい。種々変った型、色、等があって差し支えないということは、恰も同一の個性が人間の中に見出されないのと同じわけではないか。唯、この際、自分にあてはまったものが、そう簡単に易々と見附かるかどうかと云うことは云える。そのために衣裳好みということが起るのであるならばさし支えないが、徒らに高価なものを身に附けたりして通がったりするのは、却ってその人を落すだけである。
 京都へ行く度びに私がよく思うことは、京都の女は、凡てが季節などに支配されているということである。セルの季節になると、一様にセル物の姿が見られる。同じ様な意味で、縞柄とか模様、色彩などがなんとなく同一傾向のものであって、東京の電車の中で見る様な、突飛な服装をしているものはついぞ[#「ついぞ」に傍点]発見し得ない。強いて云えば京都風というもので統一されてしまっている。
 所が、東京は全く雑然としている。お召の側《かたわ》らにけばけばしい洋装がいるかと思えば、季節外れの衣裳を平気で身に附けている者がある。だから、京都は統一はあるが婦人の個性は失われている。東京は統一がない代りに、各自その人の個性がはっきり掴み取れる様な服装をしている。土地によると二つの型がはっきりと分類されていて面白いと思う。

 それから、段々職業婦人というものが多くなって、女の外出ということが繁くなるに従って、一つは綺麗ではあるが二三年でもう棄ててしまう安もの――棄ててしまっても何等惜しくないのを着る者と、他は高価ではあるが永い間着て悪くならないつまり「持ちのいい」ものを着る者という風に分れて行くであろうし、現在そうなっていると思う。派手に着飾って見た眼には美しいが、指をふれて見ると碌なものじゃないという傾向と、じみな、視覚にはそんなに衝動を与えない代りに丈夫で永持のする高価なものという二つの服装分類は、そのどちらかに依って、外出する機会を多く持っている者か、内に許り閉じこもっている人であ
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング