、余り突然だと云うのだね、妻《さい》の心持で云えば、斯う云うことを云う前に、何とか、前からのことの定りがつくべきであると云うのだ。ずるずるべったりで、いきなり父親を連れて行くから、と命令されるようでは、甚だ心苦しいと云うのだ。
 切角、田舎から出て来られたのだし、お前の立場としても同情されるから、うちでは、出来る丈歓待してあげたい。然し、一方、そう云うことがあっては、何だか、まるで嘘偽で、実に辛い義務になって仕舞う。母は、若しそう云うことになれば、東京に居て会わないと云うことには行くまいから、何処へか旅行でも仕なければなるまい、と云うのだが――
 お前は、どうしたら一番いいと思うかね?」
 父の言葉で、自分は、その時まで心付かなかった、両親の、純粋な心持を、明らかに知らされた。Aの方では、とにかく形式にでも一度連れて来さえすれば好い。どうにかなるだろう、と云う心持で居る。然し、此方では、逢うなら、心から逢いたい、それでなければ一層会わない方がよいとさえ思うが、仲に入る私を思い、それも出来ず感じる。どうしたらよい、と云うのである。
 自分は、一応順序として、彼も其には心付いて居、前に二人に来て戴きたいと云ったのだと話した。
「然しだね。丁度、来い行こうと云うようになって居た時に引越などをして仕舞ったのは、実に失敗だったね。自分は、よくあの母が行くと云ったと思って居る。あの機会を逃したのは、実に手落ちだった。只、延びたと云うだけでなく、引越しより、自分達を招くことが重大でなかった証挙だと母などは思って仕舞った。それを第一に思って居れば、引越しなどは十日でも二十日でも、延して置ける筈だと云うのだ。
 延してもよいかときかれて、いけないとは云えない立場だろう?」
 父の、斯う云う場合の話しは、コンヴィンシングな、独特な情を持って居る。
 自分等として、決して、彼等を招くことを軽く考えたのではなかったが、行為の裡には、種々な矛盾が包まれて居たのが反省された。
 若し自分が、父や母に、各々独立した人間として立場、性格、仕事を認めて貰うことを、要求するなら、又此方も、彼等に対して、為すべき其だけの義務はあるのではないだろうか。
 友達を、仮令えば晩餐に招き、急に家があったからと云って、電話一つで延して呉れと云うとは思われない。
 自分等は、他人ではない親だから、と思って、其をした。それ程、子の我ままを認容すれば、又、親の子に対する我ままも、少くとも其程度迄、認めなければならないのではないだろうか。
 自分の勝手のよい時ばかり、親だもの、と振舞ったと云われても、自分等に確かな心の弁護が出来るとは思われない。
「自分は、今度は実によい機会だと思う。お父さんの上京されたと云うことで、必要からでも、我々は、もう一歩と云う処まで接近して居る。此処で調和する点を見つけ、ずっと工合よく行くように相方で理解することは、決して無駄なこととは思われない。そうじゃあないか? 今、若し、自分に悪いことはない、此方から折れては出られないとなれば、我々にも又、Aさんに対して持って居る種々な不満や何かで、一生別れ別れに暮さなければならないことになるからだ。」
 考えた後、自分は云った。
「Aに悪いことがないと云うのは、あの小説の動機についてで、引越しや何かの時した我々の手落ちや心持の反省の足りなかったことはよく判ります。それに、おかあさまのそう仰云る心持も、真個に愛があるからこそなのだから。――よくAに話して見ましょう。そして、一度私共で来、すっかりお話をし、それから、更めて、父親を招いて下さればいいから」
「そう出来れば、真個に結構なことだ。どうもそれは順序なのだからね」
 間もなく、スエ子を寝かして居た母が下りて来られた。父から、私の承諾をきき、深い悦びを面に漲らせた。然し、未だ、あの小説を根に持って居られるのは判る。

 父が、全然理解の一致しない点には些も触れず、而もちゃんと、快く、希望する結果に導き入れたには、驚きを覚えた。
 人と人との仲に入る者の話し振りなどと云うものが、如何程、相互の関係を簡単にし、複雑にするか。その実感も、今夜始めて得たようにさえ感じた。今までは、親、弟妹の間にだけ生活し、無邪気に、
「おかあさまがね、斯う仰云ってよ」
と云ったとしても、何等、愛の問題には関係ない状態にあった。一面から云えば、其丈、純粋で、根強い愛が皆を、しっかりと一つ枝に結びつけて居たのだ。
 自分には、そのあけっぱなし、無くなす必要もない筈の子供らしさが失せない。つい、受けた感じをそのままAに話す。若しAが、その話にも煩わされず、又直ぐ忘れ、笑うような天才的なら面倒はないのだ。然しそうではなく、皆、胸にたたみ込み、ある愛を殺いだり、つみあげたりする。
 恐らく母の方でもそうなのだろう。
 それを今まで、今夜ほど明らかに感知しなかったと云ってよい。自分の生活では、無心、女らしい可愛い浅はかさ、などと云うものが、決してあるがままでは存在し得ない有様なのだ。
 僅か一時間足らずの話の間に、其等、自分にとっては、意義ある多くのことに思い当り、静かな、然し底に淋しさを持った心持で、オートバイで帰って来た。十二時少し過て居ただろう。
 Aは床には入り、眼を覚して居る。
 自分は、出来る丈平静に、又、八畳の方に眠って居る老人の熟睡をも妨げないようにして、林町で話して来たこと、自分の考え等を述べた。
 Aにしろ、もっとよい状態にありたいと云う心は強い。彼はしきりに、今、急にそんなことをしても、真実の理解がなければ、又同じようなことを繰返すのではないかと云うことを危うんで居る。
 けれども、遂に、それでは明日、二人で午後から行って、おかあさまにも会い、よく話して見ようと云うことに定った。
 彼が内心、どれ丈の深さで、此事を承知したのか、自分にはよく解らず
「その方が百合ちゃんも幸福になり、おかあさまもいいと仰云るなら、そうしましょう、ね、それが一番いい」
と云う言葉で、寧ろ、無反省な、不快に近い感を受けた。
 明る日、晴れた日曜であった。自分等二人は、陰気な気分を紛らし得ず――Aが、心から歓んで和解を迎えたのではなく、如何にも已を得ず義務と云う感で承知したので――、肴町までの長い電車の間、私は殆ど一言も口を利かなかった。彼は思想に出た「犬」と云う面白い小説を書[#「書」に「ママ」の注記]み、自分は明星の色彩音楽について読んで居る。勿論、些も、楽しい読書ではない。本でも読まなければ、顔を見るのもいやな気分になって居たのである。
 父は、特に願って家に居て戴いた。入って行くと、西洋間へ、と云うのでAを其処に通し、自分は食堂に行く。
 母は、私の不快そうな顔を認め
「何も、お前が御不承知なら、来て貰うには及ばないのだよ」
と云われる。自分は、折角の気分を壊すことをおそれ
「疲れて居るのよ」
と、打ち消した。
「――それ丈ならいいがね。――」
 自分は、注意深い眼を、眉や口に感じた。
「ね、百合ちゃん、斯うしようじゃあないか。此から、何か百合ちゃんの書くもので、私のことが出るのは、一度前以て見せて貰うように。その方がいいと思うよ。何も、斯う云うことがあったからと云うばかりではなく、モーパッサンなんか、あんな大芸術家でさえ、先ず第一おかあさんに見せ、主人公を生そうか、殺そうかと云うこと迄相談したと云う美談がある位だものね。そうしようじゃあないかい?」
 自分は、母の心情を思いやる。けれども、即座に返事はしかねた。又、そこに困ることが起りはしないだろうか。
 自分は、彼女が、私との関係を、美談[#「美談」に傍点]的なものにしたく思う心持を、有難く又辛く感じた。
「出来る丈のことはするわ、ね」
 これが私の、嘘らない心からの返事であった。
 やがて、母も西洋間に行かれる。自分は暫く食堂に行き、後、入って行くと、Aは、背後から光線を受ける場所に坐り、グランド・ファザー・チェーアにかけた父上と並ぶようになって、泣き乍ら、何か云って居る。見ると、父上の手にも手巾がある。――母は、緑色のドンスを張ったルイ風の椅子に腰をかけ、輝やいた眼を彼方に逸せ、しきりに、白い足袋の爪先をピクピク、ピクピクと神経的に動かして居られる。
 自分は黙って、窓際の長卓子の彼方に坐り、正面から三人を見る位置になった。
 対等で、真面目に話し合わず、母は気位を以て亢奮し、Aは涙を出し、父が、誘われたようにして居られる光景は、充分私の心を痛めるものだ。
 Aが
「斯う云う風に思いかえして下されば、僕もどんなに嬉しいか分りません」
と云ったに対し、母が、語気に威をつけ
「私は、何にも思いかえしたのでもなんでもないんですよ。ちっとも、先に考えたことと、考えが変ったのじゃあありません。自分がわるかったとなどは、ちっとも思って居ないんです」
 自分は、ハッとした。其点で感情が齟齬しては、もうどうにもならないことになるだろう。
 幸、父の一言二言で、その危険な峠は越した。
 久しぶりで隠居所にも行き、兎に角、落着し、老人は一日置いた翌日呼ぶことと定ったのである。
 老人の呼ばれた日、林町では、家中で愉快そうにもてなして呉れた。自分はどんなに嬉しかっただろう。以来、ちょくちょくAも行き、相当にはゆきそうに見える。然し……。どうも、母とAとの間には、自分の描く理想のような関係は生れそうもなく思われる。Aが、
「むずかしい人だから、成たけ黙って居る方がよい」
と云う態度だから。
 人間の深みの違う点に至ると、殆ど、運命的な色彩を帯びる。近頃、自分の心には、実に深い、種々の懐疑がある。――



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
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