ったからと云うばかりではなく、モーパッサンなんか、あんな大芸術家でさえ、先ず第一おかあさんに見せ、主人公を生そうか、殺そうかと云うこと迄相談したと云う美談がある位だものね。そうしようじゃあないかい?」
 自分は、母の心情を思いやる。けれども、即座に返事はしかねた。又、そこに困ることが起りはしないだろうか。
 自分は、彼女が、私との関係を、美談[#「美談」に傍点]的なものにしたく思う心持を、有難く又辛く感じた。
「出来る丈のことはするわ、ね」
 これが私の、嘘らない心からの返事であった。
 やがて、母も西洋間に行かれる。自分は暫く食堂に行き、後、入って行くと、Aは、背後から光線を受ける場所に坐り、グランド・ファザー・チェーアにかけた父上と並ぶようになって、泣き乍ら、何か云って居る。見ると、父上の手にも手巾がある。――母は、緑色のドンスを張ったルイ風の椅子に腰をかけ、輝やいた眼を彼方に逸せ、しきりに、白い足袋の爪先をピクピク、ピクピクと神経的に動かして居られる。
 自分は黙って、窓際の長卓子の彼方に坐り、正面から三人を見る位置になった。
 対等で、真面目に話し合わず、母は気位を以て亢奮し、Aは涙を出し、父が、誘われたようにして居られる光景は、充分私の心を痛めるものだ。
 Aが
「斯う云う風に思いかえして下されば、僕もどんなに嬉しいか分りません」
と云ったに対し、母が、語気に威をつけ
「私は、何にも思いかえしたのでもなんでもないんですよ。ちっとも、先に考えたことと、考えが変ったのじゃあありません。自分がわるかったとなどは、ちっとも思って居ないんです」
 自分は、ハッとした。其点で感情が齟齬しては、もうどうにもならないことになるだろう。
 幸、父の一言二言で、その危険な峠は越した。
 久しぶりで隠居所にも行き、兎に角、落着し、老人は一日置いた翌日呼ぶことと定ったのである。
 老人の呼ばれた日、林町では、家中で愉快そうにもてなして呉れた。自分はどんなに嬉しかっただろう。以来、ちょくちょくAも行き、相当にはゆきそうに見える。然し……。どうも、母とAとの間には、自分の描く理想のような関係は生れそうもなく思われる。Aが、
「むずかしい人だから、成たけ黙って居る方がよい」
と云う態度だから。
 人間の深みの違う点に至ると、殆ど、運命的な色彩を帯びる。近頃、自分の心には、実に深い、種々の懐疑がある。――



底本:「宮本百合子全集 第十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年5月30日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第2版第1刷発行
初出:同上
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2004年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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