が、云い難い不快であるらしい。厭な、狭い、暗い顔をして机に向い、気のない声で私の「只今」に応え、思い知れと云う風をされると、自分は失望や悲しみで、猛然と掴みかかりたい激情を覚えるのだ。
 若し自分が行くのが不愉快なら、何故フランクに行くな、と云って呉れないのか、
 行かせたなら、どうして、もう少し寛大に、自分の娯んで来たことを悦んで呉れないのか、
 其為に、行って来ても、受けた十の悦びを、一にも半分にも減して表情に顕す自分を自覚し、私は我ながらぞっとした。
 Aが愉快そうでなければ結局、自分もしんから楽しくはなれない。然し、林町での心持よさは忘られない。その内心の鼓動を、Aの傷かない程度に表現しようと無意識にもする為、時には、些か迷惑であったことを誇大したり、ハアティーに笑って過した数時間を、詰らなそうに話してきかせたりすることが起ったのである。
 此、相手の嫉妬心に制せられた状態が、自分の性格に、どれ程大きな嘘偽を作るか、思うと、一刻も、斯様な地位には安じて居られなくなった。切角自分の持って生れた正直さ、朗らかな子供らしさ、美しいもの、よいもの、楽しいものを愛す自然な要求を、どこまで虐げてよいのだろう、
 或晩、女中の居ない時、自分はAを捕えて、其ことを話した。
 自分に、強いて心をダルにする境遇は、とても辛棒することは出来ない。林町に対しての貴方の心持は判る。けれども、どうか自分の心持に丈は、もう少し寛大であって欲しい、陰険でなくなって呉れ、と願[#「願」に「ママ」の注記]んだのである。
 Aは、それは、余り、私が彼の気持を察しないことであると云った。
 自分は、米国から帰る時、父や母に対してどんな心持を抱いて来たか。三つの時、母に死に別れた自分は、林町の母に対して、真実我が母に再会するような期待、愛の希望を以て戻った。処が事実はどうだろう。彼女は、何から何までを批評的に見られる。決して打ち解けない。而も、自分にとっては、真に真に思いも設けない絶交まで申し渡される。――
「其は、百合ちゃんは、誰よりもよく自分の心を解って呉れるのは事実だ。けれども、正直に云えば、此心持は、僕にどれ程深いショックを与えたか、解らないのじゃあないかと思う。
 僕は、実際、長く別れて居た自分の親類の者よりは国男さんでも英男さんでも可愛いく思って居る。出来る丈行きもし、皆と一緒に楽しみたい。其を、来るなと云われ、然も百合ちゃん丈は、自由に出入りされるのかと思うと、どうしたって、僕は淋しく思わずに居られないじゃあないか」
 善悪を抜き、自分にはAの心持が気の毒に思われた。同時に又、其だけの心持、其だけの真実を、何故、母に、まともから話されないのだろう、と思わずには居られない。母は、所謂理性的で、理論から行かなければ合点をしない人のようでもあるが、決して、感動の出来ない人ではない。動かし得る、否、動き易い熱情を持って居るとさえ云えるだろう。彼が、真剣に、熱を以て、自分の真心を現しさえすれば、きっと、より広く彼自身を理解させることが出来るに、違いないのである。
 性格と性格の組合わせで、母のような人には、相手からフランクに出なければ永劫うまく行かない。処が、Aは、自分に観察的であるなと直覚した者に対しても、猶、朗らかで、構わず自分を表わす丈の、大きさはない。誘い出される好意がなければ出て来ない。一方、母は、客観的に、冷静に、如何う働くか、彼の心の様を観ようと云うのであるから、其間に、どうしても一種、渡り切れない氷河がある。
 私は、母に対して、何より先に、まず愛そう、と云う暖さのないものを歎くと共に、Aに対しては、彼の独善的な、小さい、大らかでない心情を、情けなく思わずに居られないのである。
 斯様な、デリケートなことは、仮令《たとい》一日一晩、私が泣き明したとて、一時に、どうなるものでもない。
 此事を話した時にも、自分は胸に迫り、涙を流さずに居られなかった。
 どちらもいとしいのだから、どちらも仲よく、心を開いて打ちとけて欲しい。睦しい団欒がしたい。虫のよい願いかもしれないが、自分は、父母良人、弟妹と、皆、一つ心で笑い、働き、楽しみたいのである。
 大晦日の晩、自分等は予定通り、吉田さんの処へ行った。人数は差程集まらなかったが、何と云っても、鍋から、おこげを分けて貰って食べた友達である。紐育時代のこと、結婚した友人の誰彼のこと。話したりカードを遊んだりして居る最中に、遠くの方で、百八の鐘が鳴り始めた。近所に寺が少ないと見え、あまり処々には聴えない。静に一つ一つ、間を置いては突き鳴らす音が、微に、ストーブの燃える音、笑い声を縫って通って来るのである。
 皆、他の人は心付かないように見えた。けれども、自分は、手に賑やかな骨牌《カルタ》を持ち、顔は明るく笑
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