いた素直さで、自分は何気なく配膳室と台所との境の硝子戸を押しあけた。
「今日は!」
「まあ、お嬢様!」
 まつ(女中)が、懐しさの満ち溢れた声を出す。
 彼方を向いて居た母上は、素早く此方を振向いた。そして、自分のやや寂しく微笑んだ顔を認めると
「おや、まあ……」
と云うなり、何とも云えない表情をされた。胸の迫った面持である。可愛ゆさ、安心、悦びが、一時にぐっとこみあげ、涙となろうとするのを、危うくも止めた表情である。
 自分はそれを見、正視するに耐えなかった。眼を逸し、さりげなく
「安積から来た柿?」
と、まつに話しかけた。
「そうでございます。俵に一俵も来ましたの」
 母は、黙って食堂に戻って行かれた。暫くして、自分も行く。――
 祖母が、本能で思い付いた口実で、勿論彼女の贈物のことは、相談する迄のことはなかった。
 母は静かに、自分の深い感動を制し、一言も悦びは云い表わされない。然し、三人で、落付いた昼餐をし、立ち入らない話をする間に、自分は彼女の和らいだ心を、まざまざと感じた。それが、不安になり、不自然を覚え始めた自分の心にも、云い難い安息、流れると自覚し得ない程、身についたヒーリング・ウォーターとなって滲み通って行くのだ。
 私は、とり戻せた平静を感じて帰宅した。けれども、夕刻に近く帰って来たAに其、突然起った今日の出来ごとを告げる時、口吻には、自ら、迷惑げな響が加えられた。
 Aがそれを、何方かと云えば、だらしないこと、不快の分子の多いこととして感じるのを、心が、我知らず先廻りをして仕舞ったのであった。
 斯様にして、自分と林町との間に丈は、皮膚の傷が自ら癒着するように、回復が来た。
 一度、固執を離れ、自分の芸術と云うことを抜きにして逢って見れば、自分達母娘は、流石《さすが》に何と云っても血で繋ったものである。彼女も会うことは嬉しく、自分も、楽しい。平常ほど繁々ではないが、又、折々自分は林町へ行くようになった。西洋間に坐り、自分の家には、殆ど全然欠けて居る趣味的な圏境にゆっくり浸ること丈でも、自分を可成り牽くことなのである。けれども、切角林町で幸福に、深い感興を覚えて来ても、一歩家に入ると、Aの、何とも云えない険悪な、陰鬱な感情に充満されて居るのを見るのが、如何にも自分には苦しかった。
 彼には、私が独りで彼方に行き、独りで相当に楽しく愉快にして来るの
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