黙っていたいという欲望が、激しく自分達二人の胸を満しているのである。
 然し、歩けば歩くほど、市中の喧囂に深入りしてしまう。
 生憎、昼餐の前後なので、歩道という歩道は、暫時外気を楽しむ事務員や店員やで、溢れるように賑っている。紐育の女事務員や売子のように、濃厚な白粉気はなく、いかにも身軽な白衣に素頭の若い女達が、一種独特の活溌さ、或は、常に侮蔑する対照を持ち馴れたものの粗暴さで、漫歩している。
 止まった自動車は、歩道の傍には寄せられず、却って車道の真中に、列を作って眠った大きな甲虫のように輝きながら並んでいる。――
 自分は強いて感興を湧起すように、彼方を眺め、此方を見して歩いた。けれども、一向面白くない。心のしんでは、ちっともこんな処を歩いていたくないのに、ほかにどこにも居処のないという、漠然とした寂寥で、我々は捗々《はかばか》しく話しもしないのである。
 列車が駛り、その進転に従って、いやでも外界が注意を他に牽く間、私共は、殆ど強制的に懶さを晴し、自然や村落を観察する。けれども、強いて引張るものがなくなると、我々は互の顔を見る。心を感じる。そして、家のない、不安な、行く処まで行ってしまわなければ、到底落付けない旅路を思い知るのである。
 午後七時に、また車室の座褥《クッション》が我々を迎えるまで、二人は、云い難い心持を互に堪えながら、本屋を訪ね、図書館に行きして、時を費した。
 ニュー・オルレアンスという街は、たとい黄金で道路を葺《ふ》いてあっても、我々には淋しいストレンジャアであったろう。
             ○
 昼見ると夜見るのとでは、同じ場所でも全然異った感じを与えられる。
 晩食を早めに終って停車場へ来て見ると、燈光が隅々まで煌めき渡った建物の内部は、まるで今朝来た処とは思えない。一時預けにして置いた手荷物を取り、赤帽に荷の始末を頼んで、我々は、発車に間のある列車に這入《はい》った。
 窓枠や扉の仮漆《ヴァニッシュ》は、相変らず天井の燈で燦ついている。暗緑色の座席には、同じように微かな煤煙の匂いが漂っている。
 暫くで馴れた光景を見出すと、自分は深い懐しさを覚えた。ここでは、少くとも、二人で腰かけていられるだけの場所がある。――
 我々は、ちらほら人のいる幾つもの車室を抜けて、最後尾の展望車に行って見た。
 デックに立って見ると、ちょうど、改札口が目の前にある。木棚一重に画られたそこには、黒い顔をした大人や子供が、ずらりと首を並べて凝っと動かない列車や、乗込もうとして急ぐ旅客、威厳を繕って腕組みする同じ黒人のポータア等を眺めているのである。
 故国の停車場などで見馴れる情景が、次第に自分等の心持を寛《くつ》ろがせた。
 二人三人、後から来た人が内部の肱掛椅子を占める。自分は、低い声で、冗談を云い、珍らしく声を合わせて笑った。
 一人の黒奴の女の子が、群を離れて此方を見ている。その髪が素晴らしい。黒く、ちりちり、おちぢれのようになった毛髪を、何としたことか「あぶ、はち、とんぼ」を三倍した位、小分けに処々で結んでいる、それも、ただ結んで止めたばかりでなく、一々先を丸めて色々なリボンをつけてあるので、下の小さい顔は、宛然、原始的な草花を山盛りに飾った素焼壺のように見えるのである。仔細らしく頭を曲げ、何か見恍《みと》れている様子は、実に可愛ゆく、滑稽である。
 自分が、五つか六つで、一かど大人に感じ、唐人髷の附け髷を結って貰っては、叔母の長襦袢を引ずっていた頃を思い出し、思わず軽い冗談が、唇をついて出たのであった。
 微笑を口辺に湛えたまま、片手を欄干にかけて下を覗いていると、右手の昇降口に近く立っている良人の処へ、一人の男が近づいて来た。
 手真似で彼を呼び、上と下とで、延び上り、身を屈《かが》め何か云っている。
 自分は、構わず工夫の働いているデックの下を見つづけた。と、急に彼は振返り、私の腕に触って、
「中へ入ろう」と促した。
「何故?」私は、良人の顔を見あげた。
「寒くはなくってよ、ちっとも」
「そうじゃあない。入りましょう、早く!」
 言葉が英語だったのと、彼の表情が余り気色ばんでいたのとで、囲りの二三の顔が、怪訝《けげん》そうに我々を見較べる。
 自分は黙って、彼の先に立ちデックと室内とを区切る戸と硝子扉とを押して内部に入った。
「どうなさったの?」
「今の男がね、変なことを云ったから、気持が悪くなったのさ」
「まあ、何て?」
 どこからも視線の届かない奥の腕椅子にかけてから、良人は、始めて理由を話した。
 先刻の男は、彼に金をくれと云ったのだそうだ。
 それを断ると、暫く黙っていてから、
「どこから来なすったかね」
と訊く。何心なく紐育からだと云うと、今度は、この汽車でどこまで行くのか、あの女の人も一緒かと、拇指と横眼で、私の方を指したのだそうだ。
 彼は、急に気味が悪くなった。そこへ「お体を大切になさい。御婦人づれじゃあ注意がいります」とか何とか云われ、揚句に、また、ぶらりと出て来た風体の悪い男と、頻りに此方を見い見い囁き合っているので、彼はがまんがならず、私を急《せ》き立てて内へ入ったというのである。
 自分は、はっきりと、遮断された闇の中に、先刻ちらりと見た鳥打ち帽の浮浪人らしい男の姿を思い浮べた。どこかの隅から狙われていそうで、何となく心持が悪い。けれども、まさか、ほんとに何をしようというのではないだろう。
「大丈夫よ。お金が貰えなかったから、一寸面白半分に脅かしたのよ」
「そうでしょう。けれども、心持が悪いからね。貴女がいなければ、そんなことは何とも思わないが。……」
 よく見る活動写真の或る場面がふと自分の眼に浮んで来た。それと同時に、切迫した不気味さは、忽ち当面から去ってしまった。
「ちょうど、夜中にテキサスに入るから、油断なさると大変よ。私が攫《さら》われでもすると、△△△氏追撃の光景でござい、をお遣りにならなければならないわ」
「馬鹿な!」
 私共は、怖いにしては、かなり陽気な苦笑いをした。
 けれども、停車場を離れ切るまで、さすがにまたとデックに立つ心持はしなかった。

        六

 十一月二十一日。
 昨夜の脅し文句は、もちろん現実に何の形をも顕わさなかった。周囲が明るくなってから考えて見れば、その男は何心なく云った挨拶を、却って良人の方が、旅人らしい神経過敏で受取ったのではあるまいか、とさえ思われる。
 今日一日は、広茫として限りもないテキサスの野を横切って暮れるのだろう。
 朝、八時半頃、寝室《バース》を出て化粧室に行くと、昨夜、自分等と同じ場所から乗込んで来た婦人が、椅子に腰をかけ、しきりに何か云っては両手で頭を搾めあげているのを見出した。
 傍には、連れらしくも見えないもう一人の婦人が、屈みかかって肩に手をかけ優しく労《いた》わってやっている。――
 朝日がちらちらする鏡の前に立ち、顔を洗い髪を解し始めたが、一つ部屋の中に何事か起っていそうなので、何となく気が落付かない。
 自分は到頭髪に手をやったまま傍によって行って、
「どうかなさいましたか?」と訊いて見た。
 着物をつけず、派手なドレッシング・ガウンだけを羽織って、寛やかな胸元から、奇麗なレースの縁飾りを覗かせたまま、彼女は、ぐったりと肱をついて一隅の鏡の前に靠《もた》れているのである。
「有難う。どうぞお構いなく」
 傍から額を押えていた婦人が、私の方を顧みて、
「頭がひどくお痛みになるんですって」と説明した。
「有難う。ほんとにお世話をかけます。汽車に乗ると、きまっていつもこうなんですの。動揺がいけませんのね、きっと」
 私は、気の毒に思うけれども、何と云ってよいか分らない。
 暫の沈黙の後、傍の女の人は、
「旦那様をお呼びして来てあげましょうか?」
と訊ねた。
「私共は急いで支度をしてしまいますから。ね」
 私は、もちろん同意した。もう二三分もかかれば、私はすっかり着物を著けてしまわれる。
 然し、頭の痛い女の人は、それを拒絶した。そして、立ち上り、私が自分の仕末をしている間に、もう一人の手を借りて、殆ど驚くほど念入りに身なりを整えた。
 時々、おお、おお、と云って頭を押えながら、彼方にピンをとめてくれ、それではヴェスティーが曲っていると、まるで女中を使いでもするように命令して、おそらくここで始めて顔を合わせた人に手伝わせているのである。
 傍でそれを見ているうちに、だんだん自分の心の中には、最初とはまるで異う現象が起って来た。病人と称する婦人に対する同情が次第に薄らぐと共に、もう一人の、アメリカにもこんな人がいるかと思うほど、従順な地味な婦人に、一種の感歎を持ち始めたのである。
 自分に、とても、あの真似は出来ない。恐らく歇私的里《ヒステリー》か何かで、頭の痛さを誇張すると同時に、わがままと傲慢とを憚らない態度に遭いながら、あれほど虚心にはいはいと世話が出来るだろうか。
 種々手数を煩した揚句、ようよう満足して先の婦人が出て行ってしまうと、今度は彼女自らが、溜息一つつかず、身支度にとりかかった。
 私は、思わず、
「貴女は、ほんとに親切な方だ」
と云った。そして、見栄えのしない丸顔を、一層沈める薄鼠色の絹服を裾の方から引あげる様を見守った。
「――一つは気で痛むんですね……」
 彼女は、もう今迄のことをまるで忘れたように訊き始めた。
「どちらからいらっしゃいましたの?」
「紐育から」
「まあ、紐育はようござんすね。去年半年ほどおりました。――遠くまでですの?」
 私は、自分の計画を話した。
「私は、今日の夕方着く△△△で降ります。――いつ頃御結婚になりまして?」
 こまごましたものを化粧箱にしまっていた自分は、我知らず意外な感に打れた。
 彼女は、鏡の方に向いたまま、肩のフックを押え至極平静な声で質問をかけているのである。
 いつの間に、自分達を観察したのだろう!
 おどろきながらも、私は暖い心でありのままを告げた。
「そうお。私もね来月には結婚いたします。今度も実はフィアンセのところへ参りますの。幾度も幾度もニュー・オルレアンスと△△△との間を往復して、もう好い加減|草臥《くたび》れてしまいました。――でも――今度でもうお仕舞いだから。……」
 云いながら、彼女は一寸鏡の中を覗きこんで、手早く前髪の形をなおした。そして、振返るなり、突然、何を思ったか力をこめた声で、
“Isn't that splendid !”
と云って私の顔をじっと眺めた。
“I wish your happiness.”
 私は、懇ろに彼女の肩を叩いた。

 紐育からニュー・オルレアンスまで、同車の旅客の中には、これぞといって特色のある人も見えなかった。数の少ないこと、珍らしいこと等で、却って我々が折々人の注意を牽く位のものであった。
 けれども、今朝になって周囲を見まわすと、道伴れはよほど変化している。何等かの意味で注目を牽く人が、一つ車室に必ず一人か二人はいるらしく見受けられるのである。
 先ず先刻の、鼠色の絹服の婦人を始めとして、我々の背後には、眼を醒すなり、賑やかな年寄りの夫婦に娘づれの一組がいる。
 丸々と肥って同じように赧ら顔の夫婦は、一見、小金を溜めた八百屋《グロサリー》の店主という位に受取れる。感謝祭の前後を、カリフォルニアの親類ででも過そうというのであろう。近所の座席から気軽に人を誘って来ては、小児のように骨牌に熱中しているのである。
 けれども、髪を巻パンのように結ったお婆さんは、いくら骨牌に興が乗っても、決して経済のことは忘れない。十分位停車するステーションに来ると、持札を投げすてて外の売店に駈けて行く。そして、果物や糖菓《キャンディー》の紙袋を抱えて来て、皆に食べさせる。出来るだけ食堂に出ず入費を除いて充分に旅行を楽しもうというのである。
 たださえ退屈しているところだから、窓を透して、転って行くお婆さんの後つきを見るのは、なかなか罪のないみものであった。
 コンダクタアが、ちゃ
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング