間を抜けて、私共は、或る、日本人の会館へ行った。自分達の今いるアパートメントは、何時どんな都合で引移るか分らない。その後で、故国から来る郵便が、まごついては困る。そういう心配のなくて済むように、引越しなどのない宗教団体宛に、手紙を受取っていたのである。
そこで、私共は、予期しない父からの長い角封筒の書簡を見出した。いつもは、きまって母が書いてくれていた。父の分までも代表して、彼女の大きい非常に曲線的な文字が表紙も中も埋めているのが常なのである。私は、
「まあ! お父様から?」
と、思わずそこで封を切った。そして、読みながら、屋外に出、歩道へさしかかった。
けれども、内容は、落付かない往来を歩き歩き読むような種類のことではなかった。始めは、何でもない家庭の情況、次に、改めて「卿等」という、父には稀らしい呼びかけの言葉で、我々の結婚に対する返事が書かれているのだ。
私は、それを良人に見せ、
「あとにしましょうね」
と云って、仕舞って貰った。瞬間、父や母の面影が見え、自分は云いようのない心持がした。――
暫く、店舗やデパートメント・ストアの賑やかな街道りを歩き、私共はその頃評判であった“Broken Blossoms”を看た。それから、夕靄の罩《こ》め、燈火の煌《きら》めくブロードウエーを、ずっと下町に行って、食事をした。家に帰ったのは、およそ八時頃であったろうか。
湯をつかい、楽な部屋着に換え、窓枠に載せて置いた草花の鉢をとりこんだりしてから、さてゆっくりと、先刻《さっき》の手紙を読み始めたのである。
文面は、如何にも父や母の慈愛と、率直な真心とを漲したものであった。遠く離れている彼等の心配と、幸福を祈ってくれる心持とが胸に滲みるように感ぜられた。
恐らく父は、食堂の隅にあるライティング・テーブルの前に坐って、大きな暖い頭を心持右に傾げながら、考え考えこの手紙を書いてくれたのだろう。
字句は単純で、どこにも親らしい威厳や権威を仄めかしたところはなかった。ただ、自分等の愛する者が、どうぞ不幸でないように、どうぞ正当であるように、手も眼も届かないここから、どんなに希望しているかということが、静に、抑制ある言葉の裡に籠められているのである。
頭を突き合わせて読みながら、私は涙の湧くのを感じた。この時ほど、父や母の心が、切に我々を打ったことはない。彼等が、遠く遠く離れているために、却って近く、我心の裡に感ぜられる心持がしたのである。
始め、この手紙は、母が書く積りでいたのだそうだ。けれども、生憎、この二三日、体の工合が悪くて筆を執られないので、自分が代って書いた、という文字を見ると、私共は、不安になって一層、紙に近く眼を動した。
実は、やや突然で驚くかもしれないが、母は、十二月の末頃に、出産の予定になっている、体の工合の悪いのもそのためで、近頃は、大儀で頭も大分疲れているらしく見えるという。それを読むと、私共は、思わず、
「まあ!…………」
と云って顔を見合わせた。云うに言葉も出なかった。激しい不安が互を照り返した。
父は、我々の驚を予期したように、大事ではあるが、一方から見ればそれだけ健康が恢復したことになるのだから安心しているようにと云っている。然し、自分は、それを強いて父が自分等二人に与えている、或は彼自身に与えている気休めだとほか受取れなかった。静穏に、淀みのない彼の書翰は、ここまで来ると、見えない曇を帯び、無理に、何ものかを意識の外に押しやったような形跡がある。
彼も心配しているのだ。それにしても、母は、どんな心持でいるだろう!
私は、更紗模様の被布《スプレッド》をかけたベッド・カウチの上に坐り、手に手紙を持ったまま、全く進退|谷《きわ》まったように感じた。
○
年齢からだけいえば、母は、決して出産が不自然な年ではなかった。彼女はまだ若い。私の同胞は、少なからず夭折していた。淋しくなった我々の仲間に、更に新らしい、愛らしい赤児を恵まれることは、五つになった妹のためにもよい。私共もどんなに歓び笑うことだろう。
けれども、母は、三四年前、十五になる二男を失ってから、重症な糖尿病にかかっていた。激しい精神衝動の結果、衰弱した彼女の神経は一時に多年の疲労を現したように見えた。齦《はぐき》が弛んでまだ確かりした歯が、後から後からとずり抜け、不眠になり、瘠せて来る。一時は大きいことで鳴らしていた彼女の体も、沐浴の時などに見ると、痛ましいほど小さくなった。細胞が脆弱になり抵抗がないので、少し暑気が激しいと、美しい皮膚が、惨めな汗瘡で被われる。一言でいえば、彼女の裡にある生活力が、次第に力強く再生して内部の廃滅を恢復するかまたはそれに斃《たお》されるか、二つに一つの危い状態にあったのであ
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