、寛やかな胸元から、奇麗なレースの縁飾りを覗かせたまま、彼女は、ぐったりと肱をついて一隅の鏡の前に靠《もた》れているのである。
「有難う。どうぞお構いなく」
 傍から額を押えていた婦人が、私の方を顧みて、
「頭がひどくお痛みになるんですって」と説明した。
「有難う。ほんとにお世話をかけます。汽車に乗ると、きまっていつもこうなんですの。動揺がいけませんのね、きっと」
 私は、気の毒に思うけれども、何と云ってよいか分らない。
 暫の沈黙の後、傍の女の人は、
「旦那様をお呼びして来てあげましょうか?」
と訊ねた。
「私共は急いで支度をしてしまいますから。ね」
 私は、もちろん同意した。もう二三分もかかれば、私はすっかり着物を著けてしまわれる。
 然し、頭の痛い女の人は、それを拒絶した。そして、立ち上り、私が自分の仕末をしている間に、もう一人の手を借りて、殆ど驚くほど念入りに身なりを整えた。
 時々、おお、おお、と云って頭を押えながら、彼方にピンをとめてくれ、それではヴェスティーが曲っていると、まるで女中を使いでもするように命令して、おそらくここで始めて顔を合わせた人に手伝わせているのである。
 傍でそれを見ているうちに、だんだん自分の心の中には、最初とはまるで異う現象が起って来た。病人と称する婦人に対する同情が次第に薄らぐと共に、もう一人の、アメリカにもこんな人がいるかと思うほど、従順な地味な婦人に、一種の感歎を持ち始めたのである。
 自分に、とても、あの真似は出来ない。恐らく歇私的里《ヒステリー》か何かで、頭の痛さを誇張すると同時に、わがままと傲慢とを憚らない態度に遭いながら、あれほど虚心にはいはいと世話が出来るだろうか。
 種々手数を煩した揚句、ようよう満足して先の婦人が出て行ってしまうと、今度は彼女自らが、溜息一つつかず、身支度にとりかかった。
 私は、思わず、
「貴女は、ほんとに親切な方だ」
と云った。そして、見栄えのしない丸顔を、一層沈める薄鼠色の絹服を裾の方から引あげる様を見守った。
「――一つは気で痛むんですね……」
 彼女は、もう今迄のことをまるで忘れたように訊き始めた。
「どちらからいらっしゃいましたの?」
「紐育から」
「まあ、紐育はようござんすね。去年半年ほどおりました。――遠くまでですの?」
 私は、自分の計画を話した。
「私は、今日の夕方着く△△△で降ります。――いつ頃御結婚になりまして?」
 こまごましたものを化粧箱にしまっていた自分は、我知らず意外な感に打れた。
 彼女は、鏡の方に向いたまま、肩のフックを押え至極平静な声で質問をかけているのである。
 いつの間に、自分達を観察したのだろう!
 おどろきながらも、私は暖い心でありのままを告げた。
「そうお。私もね来月には結婚いたします。今度も実はフィアンセのところへ参りますの。幾度も幾度もニュー・オルレアンスと△△△との間を往復して、もう好い加減|草臥《くたび》れてしまいました。――でも――今度でもうお仕舞いだから。……」
 云いながら、彼女は一寸鏡の中を覗きこんで、手早く前髪の形をなおした。そして、振返るなり、突然、何を思ったか力をこめた声で、
“Isn't that splendid !”
と云って私の顔をじっと眺めた。
“I wish your happiness.”
 私は、懇ろに彼女の肩を叩いた。

 紐育からニュー・オルレアンスまで、同車の旅客の中には、これぞといって特色のある人も見えなかった。数の少ないこと、珍らしいこと等で、却って我々が折々人の注意を牽く位のものであった。
 けれども、今朝になって周囲を見まわすと、道伴れはよほど変化している。何等かの意味で注目を牽く人が、一つ車室に必ず一人か二人はいるらしく見受けられるのである。
 先ず先刻の、鼠色の絹服の婦人を始めとして、我々の背後には、眼を醒すなり、賑やかな年寄りの夫婦に娘づれの一組がいる。
 丸々と肥って同じように赧ら顔の夫婦は、一見、小金を溜めた八百屋《グロサリー》の店主という位に受取れる。感謝祭の前後を、カリフォルニアの親類ででも過そうというのであろう。近所の座席から気軽に人を誘って来ては、小児のように骨牌に熱中しているのである。
 けれども、髪を巻パンのように結ったお婆さんは、いくら骨牌に興が乗っても、決して経済のことは忘れない。十分位停車するステーションに来ると、持札を投げすてて外の売店に駈けて行く。そして、果物や糖菓《キャンディー》の紙袋を抱えて来て、皆に食べさせる。出来るだけ食堂に出ず入費を除いて充分に旅行を楽しもうというのである。
 たださえ退屈しているところだから、窓を透して、転って行くお婆さんの後つきを見るのは、なかなか罪のないみものであった。
 コンダクタアが、ちゃ
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