南路
宮本百合子

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)機関車《ロコモティブ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)北|亜米利加《アメリカ》を去ろうと

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)コレハ誰ソレノオ作デ[#横書き、「誰」はアクセント(∨)付き]
−−

        一

 シューッ、シューッ、……ギー。
 カッカッカッと揺れながら線路を換え、前の方からだんだん薄暗く構内にさしかかるにつれて、先頭の、重い機関車《ロコモティブ》からは世にも朗らかなカラーンカラン、カラーンカランという、鐘の響が伝って来る。
 車内は、降りる支度で総立ちになっている。窓硝子に顔を近よせて外を見ると、遙か前方にチラチラと赤や緑の警燈が瞬き、黒く、夜のような地下の穹窿《きゅうりゅう》の下には、流れる灯に照らされて、人影が、低い歩廊《プラットフォーム》に三々五々動いている。
 次第に緩くのろく止りかける車室に立って、ギャソリンくさい停車場の空気を嗅ぎながら、この楽しそうな鐘の音を聞いたらば、誰でもいい難い感慨に胸を打たれずにはいないだろう。
 如何にも、今、長い旅から還って来たというように鐘は鳴る。嬉しく楽しく、帰った者新来の者の到着を告げ知らすように鐘はなる。
 深いコンクリートの円天井に響き渡り、車輪や荷担ぎの騒音を超えて、そのリズミカルな鐘の音は、云いようない暖かさと休安とを旅人の心に注ぎ込むのである。
 始めて紐育《ニューヨーク》へ着いてこの鐘の音を聞いたとき、自分は危く涙をこぼしそうになった。
 単調な長旅で、もういい加減心も体も疲れている。
 これで、紐育へも着いたのか、と思い、安心と新たな緊張とで、何心なく窓に近寄ろうとした途端、彼方から、思いもかけない鐘の音が、カラーンカラン、カラーンカランとなり始めた。
 幾昼夜、耳に聴えた物音といえば、急しい車輪の轟か、神経を刺す鎖の軋りばかりであった。そこへ図らずもこの抒情的な Ring a bell をきき、自分は、暫くそこに立ち尽したまま、身動きも出来ない心持になった。
 ここにも生活がある。ここにも暖い冬日の大都市がある。その地上へ。その市中へ。――見えない心が導いて、未知の圏境へ、しっかり憧れを結びつけるような親密と懐しさとが、胸に満ち溢れて来たのである。
 ――そのときから、まる一年と二ヵ月が経った。今、自分の立っているのは、嘗て自分を迎え入れてくれたと同じ停車場である。
 あのとき、私の傍には父がいた。が、今、四枚の切符を、手套をはめた手で揃えているのは、良人である。
 どこからも鐘の響は聞えない。
 石畳みの、広く高いホールには、かげの方から差し込む白い艶消しの光線が漲って、踵の音を四辺に反響させながら、旅行服の婦人が通る。うす灰の空色がかった制服を着たポーターが、赤い帽子の頭を傾けて、旅行鞄を下げて来る。
 待合室で区切られ、また改札口で区切られて、ここではまるで停車場らしいどよめきの来ない乗車口に立って、自分はぼんやりと四周を見廻した。
「自分は今、一年以上も棲み馴れた紐育を去ろうとしている。紐育ばかりではない。幾日かの後には、北|亜米利加《アメリカ》を去ろうとしているのだ。――」
 が、人々の顔を眺めながら、私の頭に浮んだこの考えは、一向我ことらしい感興をもって来なかった。この静けさ、この旅の仲間でそんなことは、ちっとも驚くべき大事らしく感じられない。
 地下の歩廊《プラットフォーム》へ通う鉄柵の際で、腕組をしながら時刻の来るのを待っている改札掛の赧ら顔は、これより平気であり得ようか。
 手荷物を足許に置き、不規則な縦列に連った旅客の眼に、これ以上の何でもなさを注ぎ込むことが出来ようか。
 到着のとき、停車場では、機関車から小さい手押車まで、あらゆる声と響とを振撒いて、階調のある活動をする。けれども、出て行くときは、何時に限らず、気抜けのするほど、実際的に落付いている。たとい、親の死目に逢おうためでも、愛人と待ち焦れた婚宴を挙げようためでも一切構わない。時間が来れば、乗り込ませる。乗り込んだら何時には動き出すだろう、と冷静に納った雰囲気が、高い石壁に落ちる燦《きら》めきのない光線とともに、凝《じ》っと我々の心まで、沈澱させてしまうのである。
 感傷的になりようがない。
 時間が来ると、私共は“All right, sir !”と頭で合図をしながら、ゆさりと鞄を持ち上げたポーターの、盤石のような背後に従って、黙って改札口を通り抜けた。
 先は、爪先下りのだらだら坂になっている。それが尽きるところから人の顔も見分け難い薄暗闇の歩廊《プラットフォーム》が続いている。左手に、電気燈がキラキラする空の列車
次へ
全17ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング