いたために、酷熱や他の自然的運命に呑み込まれずに、あの愛すべき芸術を産んだのではあるまいか。同じ、炎暑、赤道の近傍でも、土地が高燥だと、人間の精神は殺されないですむように思う自分の考は間違っているだろうか。
 メキシコにしても、そのプロダクションの種類や性質は異うが、そう考えれば考えられないこともない。
 自分が熱中して喋ったり、覗いたりしている間に、汽車は、どんどんミシシッピイの瀬戸に沿うて走った。いつか山火事があったと見えて、或る処では広大もない樹林が皆焼き払われ、黒焦げの大木が、痛々しく空に立っている。
 だんだんそれも疎になり、やがて我々の周囲は、東を向いても西を向いても、一面のスワムプになってしまった。北海道を嘗て旅行したとき、自分は、随分広いヤチを見た。そのときは、何という処だろうと思って動かされたが、今、ここを通ると、それが比較にもならない面積であったことを知った。
 あのときのように、彼方には、堅い普通の地面があるのだという感じが、どこからも来ない。目に見える限りの地平線は、同じ光る、黄色い蘆と水溜りに浸されている。涯のない、抜け切れない、彼方の側にも、このように異様な境域が拡がっているに違いないという直覚が鋭く、心を外景に牽くのである。
 どこまで行っても、どこを見ても、地面の見えない頼りなさに、感情を動かされたのは、自分等ばかりではなかった。
 始めは、黙って眼を瞠っていた乗客が、誰云うとなくその広さや、列車の速力やについて、口をきき始めた。
「何という広いことだろう!」
「全くですね、然し、景色としては独特じゃあ、ありませんか」
「さあね、日本にも、こんな妙な処がありますか?」
 皆の心には、一様に、このぶよぶよの、震える沼の中では、鋼鉄作りの汽車が、余り重すぎはしないのか、という、ぼんやりした危惧の蠢《うご》めいているのを感じ、自分は非常に興味深く思った。
 平地や田野を駛っているとき、幾百人いるか、悉くの乗客は、一切を機関車に委せている。安心して、列車の動いていること、線路を間違えずに目的地に向って進んでいることを信じ切って抛って置く。けれども、それが、一旦、こんな場所や恐ろしい山の絶壁にでも差しかかろうものなら、眠っていた人々の意識は急に溌剌となる。無数の心が後から後から各自の体をぬけ出して、列車の前後左右を守り包むように感ぜられる。
 
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