のである。
――そのときから、まる一年と二ヵ月が経った。今、自分の立っているのは、嘗て自分を迎え入れてくれたと同じ停車場である。
あのとき、私の傍には父がいた。が、今、四枚の切符を、手套をはめた手で揃えているのは、良人である。
どこからも鐘の響は聞えない。
石畳みの、広く高いホールには、かげの方から差し込む白い艶消しの光線が漲って、踵の音を四辺に反響させながら、旅行服の婦人が通る。うす灰の空色がかった制服を着たポーターが、赤い帽子の頭を傾けて、旅行鞄を下げて来る。
待合室で区切られ、また改札口で区切られて、ここではまるで停車場らしいどよめきの来ない乗車口に立って、自分はぼんやりと四周を見廻した。
「自分は今、一年以上も棲み馴れた紐育を去ろうとしている。紐育ばかりではない。幾日かの後には、北|亜米利加《アメリカ》を去ろうとしているのだ。――」
が、人々の顔を眺めながら、私の頭に浮んだこの考えは、一向我ことらしい感興をもって来なかった。この静けさ、この旅の仲間でそんなことは、ちっとも驚くべき大事らしく感じられない。
地下の歩廊《プラットフォーム》へ通う鉄柵の際で、腕組をしながら時刻の来るのを待っている改札掛の赧ら顔は、これより平気であり得ようか。
手荷物を足許に置き、不規則な縦列に連った旅客の眼に、これ以上の何でもなさを注ぎ込むことが出来ようか。
到着のとき、停車場では、機関車から小さい手押車まで、あらゆる声と響とを振撒いて、階調のある活動をする。けれども、出て行くときは、何時に限らず、気抜けのするほど、実際的に落付いている。たとい、親の死目に逢おうためでも、愛人と待ち焦れた婚宴を挙げようためでも一切構わない。時間が来れば、乗り込ませる。乗り込んだら何時には動き出すだろう、と冷静に納った雰囲気が、高い石壁に落ちる燦《きら》めきのない光線とともに、凝《じ》っと我々の心まで、沈澱させてしまうのである。
感傷的になりようがない。
時間が来ると、私共は“All right, sir !”と頭で合図をしながら、ゆさりと鞄を持ち上げたポーターの、盤石のような背後に従って、黙って改札口を通り抜けた。
先は、爪先下りのだらだら坂になっている。それが尽きるところから人の顔も見分け難い薄暗闇の歩廊《プラットフォーム》が続いている。左手に、電気燈がキラキラする空の列車
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