のか? と訊いたら、牛盗人は一寸躊躇する風であったが、徐《おもむ》ろにもう一遍口をあけ、ゆっくり舌を出して見せた、その様子を格子の間から見ていたわたしは声をあげて大笑いをした。
ふだんどおり笑っている。食べている。しかも、ふっと我にかえって見ると、いつしかわたしは体じゅうに力をこめ、一心不乱に凄じく何ごとかを思い凝している。苦しいその数日の間に、謂わばわたしは、私等の結婚生活を再びその隅々まで生き直したようなものなのであった。良人と妻との間にだけ経験された様々の歓び、美しき瞬間、愚かな瞬間、それらについて、その良人を失った妻、または妻を失った良人は、互の生活にだけあるその豊富な生きた内容を誰にそっくりそのまま伝えることが出来よう。
わたしは愕然として、三十余年間ともに起きふしして来た男女として、父母の姿を新しく発見したのであった。
底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
1979(昭和54)年9月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
1951(昭和26)年12月発行
初出:「改造」改造社
1934(昭和9)年8月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
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