qは、テーブルの上へ旅行用の裁縫袋をとり出して、上衣の絹裏がほつれたのをつくろっている。あしたからおろしてはくための新しい靴下がセロファン袋のまま裁縫袋のわきに出ている。それは、伸子たちがいままではいているような、本当の絹ではあるが白っぽくだらけた肌色ではなく、すっきりしたオークルで、人絹のうすでな靴下だった。ベルリンの大きな百貨店ウェルトハイムの婦人靴下売場にはモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]から来た伸子をびっくりさせるほどいく種類もの靴下があった。それを買う婦人のために、売子は内部から電燈にてらされているガラスの脚型にくつ下をはかせて、ほつれのあるなしを調べわたしていた。
 街路をぬらして降っている雨と、女ばかりにくつろいだ室のなかの光景と、それはベルリンでのめずらしい一晩だった。
 伸子は、素子からはなれてテーブルにふかくもたれ、艷やかな湯あがりの顔を頬杖にささえながら、素子のこまかい針の動きを見ていたが、
「あなた、ワンピース着て見る気はない?」
 ゆっくり自分の考えていることのなかから話す声の調子でいった。いま素子がほつれを直しているのはウィーンで買った、淡いライラック色のスーツの上着だった。
「そりゃ着たっていいけど、似合うのがないじゃないか」
 うつむいて手を動かしながら素子が返事した。
「――スーツって、そんなに着心地がいいものかしら?」
 伸子にはそう感じられないのだった。
「いいと思うな。スーツが女のなりの基本になっているだけのことはある。しゃんとしてるもの」
 ウィーンでも素子のこしらえたのは二組のスーツだった。一着は、いまつくろっている上着とそろいの。もう一つは、ひどくしゃれた渋いスーツで、紺地におもしろい縞がほそく出ているコートとスカートに、とも色でドローンワークした白いクレープ・デシンのブラウスが組み合わされた。伸子は、その同じ店で、おちついた細かい格子のワンピースにともの春外套のついたのを選んだ。その薄毛織地のワンピースの衿のところには、肌色と紺のなめしがわでこしらえた椿の花の飾がついている。ベルリンへ来てから、伸子は初夏用の服を一着買った。それもさらりとした肌ざわりの、月光のような色あいのワンピースである。
 伸子はしばらくだまっていて、
「そう云えば、わたしはスーツきないわねえ」
と云った。
「どうしてかしら。――旅行用にでもきる気がしない」
「そりゃそうさ。ぶこちゃんみたいなはいはい[#「はいはい」に傍点]人形がスーツきられるもんか、窮屈で――」
 たしかにそれもそうだった。素子のすらりとした体つきから見れば、伸子はまるまっちくて、手脚が短かいのだから。伸子はこれまで素子と自分とが、一方はスーツずきで、一方はワンピースずきだというようなことについて、特別な注意を向けたことは一度もなかった。素子と自分とは皮膚の色がちがうように、体つきがちがうように、めいめいはめいめいのこのみで着ているとしか思ったことがなかった。こまかく云えば、伸子がそう思っていたということさえ、いくらか意識しすぎた表現になるくらいだった。ひとりでにそうなって来ていた。ところがつい二三日前、伸子たちはつづけざまに妙なものをみた。

        十四

 川瀬たちのグループが、伸子と素子をつれて行ったのは、ベルリンの繁華街から二つばかりの通りをそれた、とある淋しい町だった。リンデンの街路樹のしげみのかげに、ぼんやり青っぽい灯のついた一つのドアをあけて入った。内部は、こぢんまりしたカフェーだった。レコードが鳴っていて、幾組か踊っている。周囲の壁ぎわに、スタンドに照らされた小テーブルがおかれていて、そこへかけて、踊っている組を眺めているものもある。伸子たち四人は一つの小テーブルを囲んでかけたが、気がついてみると、その狭いカフェーで男というのは、川瀬や中館たちばかりだった。そのカフェーの中にいるのは、踊っている組も、壁ぎわのテーブルに腰かけて見ているのも、女ばかりだった。同じように断髪の頭だけれども、スーツを着てネクタイをたらした女と絹のワンピースを着た女とが組んで踊っていて、スーツとワンピース半々の数だった。
 照明のはっきりしないカフェーのなかで、レコードの廻転度数をおとしたようなフォックストロットがもの憂げに鳴った。踊っている組でも、その動作にも顔色にも華やいだ興奮の雰囲気はなかった。
「なるほど、ここはかわってる」
 素子が、しばらく店内を見まわしていたあげくに云った。
「みんな商売人ですか」
「どうなんだろう」
「こんなにしていて気が向けば、どっかへ行くってわけなんだろうか」
「そうなんだろう。――こういう連中は大抵コカイン中毒でひどいんだ。――大戦後のドイツにはこんなことがひどいんだ」
 伸子は話をききながら、好奇心と嫌悪のまじりあった感情で、ぐるりにいる女の群を見た。スーツを着ている女、このカフェーの特色である女で女の対手をする女は、どれも瘠せていて、云い合わせたように顔色がわるかった。そして、うすい顎の線が目立った。伸子たちのテーブルのそばを踊りながらすぎてゆく組をよく見ていると、スーツの上から肩胛骨がわかるように不健康な背中をしているのが多くて、ポマードをつけた断髪の髪をそこにかきつけてある耳のうしろあたりには、伸子を無気味にした病的なよごれの感じがあるのだった。
 伸子たちのテーブルへ、ベルリンでおきまりのビールがくばられた。伸子の顔つきを見て、
「へんな顔をするもんじゃないよ。誰も無理につれて来たわけじゃあるまいし」
 川瀬たちに対する礼儀と、そこにいる女たちへの仁義のように素子がたしなめた。君たちも女づれだからってベルリンの表通りを見ていただけじゃ、と風変りな[#「風変りな」に傍点]このカフェーへ、案内された。大戦後、ドイツのショウは裸ばやりになった。その流行はアメリカにうつって大規模なジーグフリード・フォリーズなどを生んでいる。先晩、伸子たちが同じ顔ぶれで観たもう一つの風変りなカフェーは、カフェーというよりもっと見世物式で、そこの立役者は、まるで若い女のような体つきをもった一人の男だった。きれいな金髪を柔かな断髪に波うたせて、大柄でぽってりとした体つきの裸体女が、音楽につれて、照明の輪の中にあらわれた。パリでジョセフィン・ベイカアがはやらした駝鳥羽根の大きい扇を体の前にあやつり、きっちりと小さい金色のパンプをはいた足の上で、あらゆる角度に桃色の体をくねらせながらしばらく踊った。胸のあたりも体のしまった若い女としか見えないその男は、踊りが終って照明の輪からぬけ出す瞬間、伸子たちのいるところからは見えなかった何かの動作をしたらしくて、それまでしーんとしてその女のような男の踊る姿に目をうばわれていた観客が、どっといちじに男の喉声を揃えて笑った。それは、ばかばかしいような異様なような空気だった。伸子たちは、その立役者のおどりがすむとすぐそこを出た。川瀬たちの話によると、そこにいたかなりの数の女客のうち、ほんとの女は何人位だろう、ということだった。
「ベルリンには、もっと気ちがいじみたカフェーがある。囚人カフェーっていうんで、そこじゃ給仕がみんな横だんだらの囚人服を着ていて、バーテンダアは看守のなりだよ。御丁寧に、腰かけは裁判所の被告席そっくりのベンチさ」
「戦争ですよ、みんな戦争の置土産ですよ」
 ベルリン生活のそういうものが珍しくもなくなっている中館公一郎が沈んだ顔をして云った。
「人間のアブノーマリティなんて、つくづく見ればどれもこれもあわれきわまったものなんだ」
「こっちにあるもので、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]になさそうなものっていうと、さし当りこんなところだね、そのほかにはあの広場《プラッツ》の白い輪だ」
 それはカール・リープクネヒト館の前の流血メーデーの記念のことだった。
 こんな病的な女カフェーも、戦争まではなかったものにちがいなかった。伸子はその陰気でじめついたカフェーにかけていた三十分ばかりの間に、女たちが踊りながら伸子たちのわきを通りすぎて行くとき、とくにスーツの方の女が、意味ありそうな眼つきで素子を見、それからその視線を伸子の上へ流してゆくのに気づいた。しばらく何となくただそのねばっこい視線を感じていた伸子は、突然目がさめたように自分がワンピースを着ていて、素子の着ているものはスーツだ、という事実を発見した。そして、それはこの特殊なカフェーの中では偶然と見られるものでなくて、ここに集っている錯倒的な女たちには互の錯倒を見つけ合う一つの目じるしとなっている身なりだということに気づいたのだった。
 伸子は、それに気づいたとき、自分がそう気づいたことを川瀬たちに気取られるのさえいやだった。川瀬たちは、伸子と素子という二人一組の女にとって、この錯倒的なカフェーの雰囲気は何かの連関をもっているものかと、わる気はないにしろ、ある距離をおいて眺める気持もなくはなかったのだろうか。
 伸子はそこへはいって行ったときの無邪気さを失ってその女カフェーを出た。大きくすこやかに動いているモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]生活で忘れていたこだわりが、伸子によみがえった。ベルリンにこういう女カフェーがあるのを見せられて、伸子は、自分たちが主観的にどう生活を内容づけているかということとは別に、女と女との関係の頽廃の底をのぞき見た感じだった。そこからうけるいとわしさは、伸子がひととおり正常な性のいきさつを知っているだけに肉体的だった。そしてそれには、カール・リープクネヒト館の前の広場で、はじめてあの白ペンキの環をじっと見たとき、伸子の体をこわばらした感じと共通するところがある。
 けれどもそういう心もちについて伸子は素子と何も話さなかった。こんな話題をつっつきまわすことで、二人の感情とその表現の上に保たれて来ているつり合いが狂うことが、伸子としてこわかった。素子も、ただ物ずき心で陰惨なあの夜の女カフェーの光景を見ていたのでなかった証拠に、彼女としては珍しくそれについて皮肉めいたことも云わず冗談らしいことも云わなかった。二人とも、自分たちの生活は下水の上にわたされている一枚のふた[#「ふた」に傍点]の上に営まれていて、しかもそのふた[#「ふた」に傍点]はさまで強固でないことを知らされたわけだった。
 その晩も、伸子は、スーツが着よいか、着にくいかというだけの話にとどまって、素子が、上衣のうらのほつれを直しているのを見ていたが、やがて、
「あなた、ベルリンていうところを、どう思う?」
 素子にむかってきいた。
「おもしろいところと思う?」
「さあ、おもしろいっていうのとはちがうんじゃないか」
「わたしはドイツってところ、やっぱり気味がわるい」
 やっぱりというのは、この間うち幾度かベルリン国立美術館へ行ってドイツの絵を見たとき、伸子は、古い絵に描かれているヴィナスさえも蒼白く肩がすぼけて、腹のふくらんだ発育不全の女の姿で、冷たく魚のようで気味がわるい、とくりかえし云ったからだった。
「ベルリンの生活って、何だか矛盾に調和点がないみたいだわ」
 一方には、津山進治郎が日本も見ならうべきだという軍国主義があった。ベルリン市内の建築物はすべて五階。町並は一区画ごとに同じ様式に統一されていなければならなかった。だからベルリンでは綺麗な町ほど観兵式じみていた。やかましい規定をもった街路が、その幅なりに四方から集った中央に広場《プラッツ》があった。そこは十字路だが、几帳面に同じ幅の道が落ちあっただけの四角四面な広さに動的なふくらみがなくて、交通頻繁なところはせまくるしい感じだった。そこで、口を利かない気むずかしやのように、赤、橙、青の交通信号が絶えず瞬いている。ベルリンのレストランでは、献立につけてビールか葡萄酒をのまないものは、そのかわりとして一定の税のようなものを払わせられた。それも規則だった。
 伸子は、ベルリンの電車のなかで、席があっても立ったままでいる中学生をよく見かけた
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